オンボロとは言え、住み慣れたアパートを放棄し、新たな環境に身を投じる にはためらいを覚える。ウィルはへたった寝床でまどろみながら、ぼけた頭の まま、しかし、それでも大真面目に考えてみる。引っ越し。それは存外、面倒 な作業なのではないだろうか? まず業者に費用の見積もりを依頼する。その ファーストステップ、それ自体がウィルには面倒に思えた。 だって、知りもしない奴に電話するんだぜ? そんなの、面倒臭いに決まって いるじゃないか? それをよく皆、あちこち、ひょいひょい、ぴょんぴょん、 飛び移るよな? 風邪とかインフルエンザとかそんな、ウィルスじゃあるまい に。物好きだよ、全く。 面倒だ。どう考えても面倒でしかない。しかし、引っ越しはしたい。いや、 正確に言おう。ここではないどこかに“逃げ出したい”のだ、と。 つまり。それを世間では引っ越しって言うんだろ? ウィルはため息を吐いた。考えてみるまでもない。“欲求”を満たすには、 多少の面倒は呑まねばならない。何を手に入れるにも“交換”は必須なのだ。 ウィルは渋々と、取り敢えず、同僚から聞き出した大まかな引っ越しの手順を 頭の中でなぞってみる。この辺りまでは無料だ。気兼ねをする理由はない。 そして、その時点で早くもウィルは身震いし、正直、吐き気すら催していた。 うへー。面倒臭せぇ。手続き、手続き、手続きじゃねーか。 自分は面倒を嫌う、安定志向の強い性格をしているとウィルは思う。だから こそ、ウィルには転職をした経験がない。現状を思えば次々、去って行く同僚 達は賢いと思えなくもない。誰だって、より高給で、わりの良い仕事を求める し、それは正当だと思いもする。だが、ウィルはそれを求めなかった。安月給 にも、過重な労働にも甘んじ、続けることが出来た。 我慢出来るよ、それくらいなら。だって、日常ってゆーのはさほど変わらない のがいいものだから。それが一番、心地良いことだろ? オレは一大変化って 言うのが嫌いなんだ。慣れるまでの神経すり減らす日々が我慢ならないから。 確かに現状維持など消極的な手法かも知れない。だが、自分には合っている。 だから、オレは転職しなかったし、引っ越しも望まなかった。オレって人間を 取り巻く環境を変えたくなかったから。 考えてみるまでもなく、引っ越しとは日常における最大級の面倒だ。自分を 取り巻く全てが、空とか太陽とか、その手の個人の都合ではどうにも出来ない 大事以外は全て、取り変わるのだから。ウィルは小さく息を吐いた。 そう言えば。ガキの頃、田舎から出て来て大変だったよーな気がする。てんで 忘れてたけど。ま、子供の頃ならな。金の心配はしなくていいから気楽なもん だよな。だから、なーんも覚えちゃいないんだろうけど。 しかし、成人となった今ではそうもいかない。面倒な上に、引っ越しには大層 な費用を支払わなければならない。そんな不合理がウィルの性格に染むはずが なかった。 まっぴらだね。言い訳がましいけどさ。オレがケチって、そんな単純な話じゃ ないよ。不合理なんだよ、根本が。矛盾しているんだ、大体がさ。 ウィルはくたびれた枕に顔を押し付けながら、だだでもこねるように小さく 首を振ってみる。そんなことで現実がウィルに折り合いを付けてくれるわけで はない。しかし、それでも、そうせずにはいられなかった。“おかしな現実” に精一杯、反抗してやりたいのだ。 おかしいよ。オレにはここにいたい、いや、いるべき理由がある。それなのに 引っ越ししたいと望まなきゃならない。それ自体がおかしいじゃないか? |