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  それら、この半年足らずの間に相次いで発見された四つの他殺体は、どれも
これも間違いなく本物の惨殺体だった。ああまで惨たらしい他殺体を短期間に
四つも見た、それ自体が悪夢と言えるのだろう。むろん、刑事である以上、他
職の人間の比ではない数の死体を見て来た。しかし、何日が過ぎても目に焼き
付いて忘れられない“物”はその四つと、刑事になって初めて見た一つ、それ
だけだ。
あの死体...。 
それはある時計店の主人の“物”だった。
良く覚えている。
麻木は当時そのままに白いタイルの床に流れ出た彼の夥しい血や、脇腹に突き
刺されたまま残された包丁の柄を、犯人の遺留品と思われるマッチ箱の絵柄を
覚えている。あまつさえ、果てた主人の形相は忘れようもなかった。それこそ
が麻木が生まれて初めて見る肉親でない者、縁のない他人の死体であり、刑事
として初めて向き合った死体だった。
 その死体と出会って、麻木にはようやく具体的に理解出来たことがあった。
これから先、刑事である自分は途方もない数の死体を見るのだと、初めて骨身
で理解し得たのだ。そして、その恐怖の予想数値を理解した後、つまり、二つ
めから死体とはただの、犯人が残した物的証拠の一つとなった。当然、事件が
解決すれば、自動的に頭の中から消去出来るデータに過ぎなくなった。結果、
一連の事件が発覚する半年前まで麻木が長く覚え続けている死体はその時計店
の主人の“物”だけとなっていた。
あれだけは良く覚えていた。いや、この頃、ますます、くっきりと思い出して
来たような。そんな気がする。
あの時。
 夕暮れ時のわびしさが漂う薄暗い店内で一人、果てた男の心情を若い自分に
理解出来ていただろうか。いくら考えてみても、麻木には当時の自分の気持ち
を取り戻すことが出来なかった。年月が記憶を消し去ったと言い訳は出来ない
のかも知れない。何しろ、感情的なもの、それ以外は鮮明に覚えていて、その
くせ、死体を見下ろしていた己のあの気持ちだけが思い出せないのだ。
忘れたわけじゃない。
麻木は振り切るように強く頭を振った。
オレはすっとぼけているんだ、きっと。
あの日の気持ち。それは恐らく歳を重ね、どうにか一人前となった今となって
は、それが自分の偽らざる心情だったとは認めたくない、それほど不遜なもの
だったに違いなかった。若かったからだと言い訳も出来ぬほど、あの日の麻木
は被害者の“思い”には無頓着だったのだ。
だから、忘れたふりをしているんだ。
 正直、あの日の麻木は、刺され、その命が尽きるまで、更には息絶えた後、
死体として発見されるまでの長時間、冷たいタイルの上に転がったままだった
その男を哀れと思わなかった。
思えなかった。そんな気持ちに気付けなかったんだ。

 

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