back

menu

next

 

 フォレスは思いもかけない行動に出た。それは恐らく、喰らったイツカ自身
が予期しないことだっただろう。
オレだって。
傍観者であるウィルとて、まさか、それだけはしまいと踏んでいた。しかし、
一向に聞き入れようとしないイツカに業を煮やしたフォレスは唐突に、大切な
預かり物であるイツカの側頭部めがけ、厚い大きな平手を打ちつけたのだ。
 物凄い音がした。その音が示すフォレスの怪力ぶりにウィルは身震いして、
密かに背筋を凍らせる。一撃の効果は絶大だった。一瞬にしてイツカの意識は
遠く、少なくともここではないどこかへ飛ばされて、意識と言う名の責任者を
失った身体は大きく揺れて、がくりと膝から崩れ落ちた。フォレスがイツカの
右手首を掴んだままだったために辛うじて、イツカは転倒を免れた。イツカの
身体が床に落ち、打ちつけられるより早く、フォレスがイツカの手首を掴んで
いた自分の左手を引き上げれば、それでよかったのだ。フォレスのその何でも
なさそうな動作一つでイツカの身体はそっくりそのまま、上へ吊り上げられて
いた。
化け物か、こいつは。
その驚くべき光景はウィルに束の間、懐かしい記憶を呼び起こさせた。
 ふわふわと愛らしい白いウサギの縫いぐるみの耳を掴み、駆けて来る我が子
の幼い姿。思い出しただけで頬が緩む。確かにショーンは可愛らしかった。
アリスもきっとこうだったんだろうなって思うくらいに。
懐かしさにうっとりと追想する。だが、そんな懐かしい光景を今、こんな所で
瞼に重ね合わせて見るなど、あまりにも不自然なことなのではないか?
何で重なるんだ?
考えてみる。重なったのは息子と、同僚ではない。
重なったのは。
ウサギの縫いぐるみと、イツカだ。 
おい。
待てよ。
いくらフォレスが怪力でも、それはない、だろう?
 訝しい。確かにイツカは細身だ。だが、決して、縫いぐるみなどではない。
少なめかも知れないが、きっちり一人分の重量は持っているだろう。それにも
関わらず、フォレスはあまりにも易々とイツカの身体を引き上げた。
片腕で、だぜ?
その結果、一瞬とは言え、ウィルにはイツカの身体が綿の詰まった縫いぐるみ
であるかのように見えたのだ。
何て、怪力野郎だ。大体、普通、平手一発で気絶だってさせられないだろう? 
スパナで殴ったとか、そんなんでもなきゃ。
無理だよ、実際。
とは言え、それでもフォレスは手加減は忘れなかったはずだ。何しろ、自分が
ずっと面倒をみ、育てて来た、“雇い主”の子供相手だ。本気で殴って、失職
するほど、馬鹿ではないだろう。
第一、馬鹿じゃ、採用されないし。
それじゃ、加減して“これ”、か? 
大事な子供相手で、手加減して“これ”なのか? 
だったら。
・・・
 もし、フォレスがウィルを“やる”と決めたなら。当然、同様の程度で済む
はずはない。フォレスにして見れば、ウィルは諸悪の根源だ。可愛い、素直な
子供に横から要らぬ知恵を付け、どんどん扱い難くする悪者と信じているはず
なのだ。
昨今の腹の立つことは全て、オレのせいで、オレさえいなければ全て、今まで
通り、自分の思うがまま、二人仲良くやって行けると思っているんだろうよ。
そんなはずもないのに。
生きるためとあれば、当然、戦おう。生き残るための戦いに命を賭ける覚悟は
あるつもりだ。
しかし、いかんせん場所が悪い。
いや、悪すぎる。
ウィルは嘆いた。こんな地下三階などと言う土中で、フォレスが怒りに任せ、
ウィルを殺したとしても、殺人事件には“ならない”やも知れない。変死体が
発見されて初めて、事件は“発生する”ものなのだ。逆説的に言えば、事件に
おける最大の物的証拠、死体が隠滅出来れば、殺人そのものが為されていない
に等しい状態となる。
こんな所じゃ、インチキし放題じゃないか? 目撃者はいないんだし、他人と
交流があるようにも見えないから、しばらくそこら辺に放って置いて、適当な
時期に運び出して捨てるか、いっそ、大型冷凍庫に入れとくか、刻んでトイレ
でジャーと流すか。別に何の手間もない話じゃないか。
もし、フォレスが怒りに任せ、ウィルを撲殺したとしても。ウィルの哀れな骸
が発見され、殺人事件として発覚しなければ、社会的に被害者は発生しない。
誰も、オレが殺されていると気付かずに時間だけが過ぎて行くのかもな。
そして、残念ながら世の中には上手い具合に遺体を処理し、のうのうと暮らす
殺人者が結構な数、存在するらしい。考えてみる。怪力と資金、そして並以上
の頭脳を持つフォレスが決心すれば、死体一つを隠滅するなど、さほど難しい
ことではない。殺す、までは誰にでも出来る簡単な行為なのだ。
後始末だけが難しいんだからな。
 殺人までは衝動さえ感じれば、誰にでも出来る単純作業だ。だが、その後、
死体を隠滅し、事件を発覚させないためには並々ならぬ知恵と高等技術が必要
とされる。一連の作業の中で集中力と技術、知識を必要とするのは証拠隠滅、
その作業だけと言っても過言ではない。そして、それこそが困難を極める難業
であるからこそ、毎日、飽きもせず、殺人事件は“発生”するのだ。ウィルは
この場を省みる。
目撃者、なし。
通行人の心配、なし。
そうだ。
もしかしたら。
いきなりイツカを“眠らせた”のは、本腰入れてオレをやる気だからじゃない
のか? 
イツカに邪魔をさせないため? 
いや、子供に“目撃”させないため、か?
視線を向ける。意志のない身体。輝く光の膜で覆われた髪だけが生気を放ち、
残りの部分は全て、人形同然だ。あまりに頼りない。しかし、それでも未だ、
イツカは生きている。ウィルが日常的に見かける路上で、汚れた床で、草むら
で放置された哀れな死体とは違う。失神し、おとなしくなった。ただそれだけ
のことで、現前としてその身体は生きている。他人に目をそらされることも、
頼るべき肉親にすら受け取りを拒まれることもない。健やかな身体はフォレス
に抱き抱えられ、じっとしているだけなのだ。
 フォレスはと言えば、イツカを抱えたまま、しばらく身動ぎもしなかった。
ウィルなどそこにいることすら忘れて、自分の腕越しに伝わって来るイツカの
温もりや、鼓動を確かめていたのかも知れない。いつもと変わらないイツカの
感触を楽しみ、満足したのか、フォレスはようやくイツカを手近なソファーに
横たえた。イツカの顔にかかった髪を払い除ける時、フォレスは初めて温和な
表情を見せた。
何だ、子守りらしい顔もするんだ。

 

back

menu

next