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 その様子を眺めていて、ウィルにもどうにか、フォレスに話し掛けてみよう
ではないかという小さな意気地が湧いて来た。
そうだ。
こいつだって、見かけはおっかないけど、別に悪魔ってわけじゃない。言葉が
通じないってわけでもない。それなら、それなりのチャンスはあるはずだろう
? それに。間違いなくこいつがバクッと勢い良く食いついて来るに決まって
いる、ありがたい話のタネなら、すぐそこでほら、眠っているじゃないか。
「イツカは大丈夫なのか? えらくぐったりしているようだが、大事じゃない
んだよな? 医者を呼ぶような事態じゃ、ないんだよな?」
フォレスは自分の所業がもたらした結果に余計な口を出され、良い気はしない
のだろうが、やはり無視はしなかった。
「手加減はした。大体、オレがイツカを殺すはずがない」
もっともだ。だが、子守り男が預かり物の子供を傷つければ、その時点でクビ
を宣告されてもおかしくはない。
つまり、雇い主的には既にクビにしたい状態なんだ、今でも、十分に。と言う
か、これを知ったら、クビにするだろう、普通。速攻で。
ウィルはしかし、そんなフォレスを刺激するようなセリフは口の中で転がして
発することなく、そのままゴクリと呑み込んだ。ようやく機嫌が回復し始めた
兆しの見えるフォレス相手にわざわざ、こちらからケンカを売る必要はない。
こんな所で死ぬわけにはいかない。そんな下手をするわけにはいかないのだ。
だって、あのアリスがオレを待っているんだから。

 未だ、ささやかな気休めに過ぎないものなのかも知れない。だが、それでも
フォレスの機嫌が僅かながらも上向いた。それはウィルにとって、生還し得る
可能性が生じた、と同義なのだ。ごくささやかにして、だが、間違いなく光明
には違いなかった。そのチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。ウィルは
殊更強く、自分に言い聞かせる。
そう、これはチャンスだ。輝かしいビッグイニングに替えられるかも知れない
一打逆転の大チャンスなんだ。考えてもみろよ、ウィリアム・バーグ。あんな
いい歳になるまで、ずっと同じ子供の面倒を看続けて来たフォレスって野郎は
結局、酔狂なお人好しなんじゃないか。ある意味、崇高な奉仕の精神と崇める
に足るくらいの。だって、どこの誰に真似出来る?
 改めて考えてみる。もしかしたら、彼はウィルには予想外の高給を得ている
のかも知れない。だが、普通の人間なら少々の高給よりも日射しを選ぶ。この
あまりに特殊な労働環境は正常な人間には拷問に順ずると言えるはずだ。高給
に目が眩めば、四、五日なら全く構わないだろう。だが、そんな金銭欲だけで
は四年、五年とこの場に居座れるはずがない。だとすれば、こんな地下世界に
フォレスが勤め続けている理由は高給欲しさからではなく、万が一にも自分に
置いて行かれれば、物の見事に一人きりになってしまう哀れな子供、イツカを
気遣ってのことだったと解釈出来るのではないか? もし、そう考えることが
出来るなら、フォレスは良心的な、情に脆い一面を持った男だと推察しても、
支障ないのではないか? 
そうだよ。人が良いからこそ、続けられる仕事もある。
裏返して言うならば、フォレスはむしろ、善良な人間なのではないか? 
見かけはああだけど。でも。そうだとしたら、つけ入る隙だって、きっとある
はずだ。それに。
今、カッとなってオレを殺せば、こいつだって、後悔しなきゃならなくなる。
犯罪を未然に防ぐのだって、立派な仕事の内だし。こう見えても、オレは刑事
だからな。殺人を犯させないことだって、立派に職務だ。そうとわかったら、
気合を入れてかからなくては。
そう自分に言い聞かせつつ、ウィルはきっかけを待っている。目前にぱっかり
と道が開く、その一瞬を待っていた。
大丈夫だ、ウィル。よく考えてみるんだ。
いつまでも子供だと信じていたイツカに出し抜かれて、つい、カッとなった、
それだけの話なんだ。カーッとなって、一時、我を失った。何かに例えるなら
そう、飼い犬に手を噛まれた主人のその一瞬の心理に似ていると言えやしない
かな?
まさか可愛がって来た愛犬に自分が噛まれるなんて思ってもみないから、その
場はカッとなる。血が煮え立ちそうな、激しい怒りも覚える。だけど、そんな
憤りに任せて、何をするって言うんだ? 可愛がって来た愛犬を殺しちまった
ら、自分の方こそ、それこそ一生、悔い悔やまなきゃならないんだぜ。
ウィルは自らを鼓舞するため、必死に自分に言い聞かせながら、ふと気付く。
あれ、意味合いが違うか。
パチパチと瞬いた。
あ、そうだ。意味が違うか。フォレスの愛する可愛いワンコちゃんはイツカで
あって、オレじゃない。フォレスにして見れば、オレは可愛いワンコちゃんを
けしかけたろくでなし、なのか。それじゃ、、、。
 身も蓋もない結論に絶句する。だが、それでももう少し待てば、時間を繋ぐ
ことが出来さえすれば、逆上したフォレスも次第に落ちついて、子守りとして
選ばれた本来の気質に戻るはずだ。自分の立場も、ついでに常識も思い出すに
違いない。
そうだ。イツカの一歳の誕生日からずっと世話しているって、マークが言って
いたじゃないか。怒りに任せて人を殺すような男なら、端からイツカの両親に
採用されないし、何十年も、それもこんな土中で、子供の世話なんか出来っこ
ない。第一、生き物を殺しちゃいけないって教えるのはベビーシッターの最初
の仕事だろ? そんなの、イツカに教えてから随分、日が経っているからって
まさか、綺麗さっぱり忘れちゃいないだろう? そんな大昔の仕事じゃないん
だし。だって、イツカは若いもんな。だったら、良く覚えているよな、教えた
あんたの方も。

 淡い期待を込め、ウィルは自分の運命を握るフォレスの動向に目を凝らして
みる。先刻からフォレスはイツカの頬を撫でていた。静かに繰り返し撫でる内
に落ちつきを取り戻し、彼は平常心を取り戻すことが出来たようだ。
さっきまでの殺気は消え失せている、よな? 
子守りらしからぬ怒気は消えている。しかし、ウィルには胸を撫で下ろすこと
が出来なかった。イツカを見守るフォレスの眼差しは確かに愛情深いものだ。
だが、一方でそこには尋常ならざる執着も浮かんで見える。フォレスの愛情は
ウィルには狂信的なものに重なっても見えていた。
気の迷いか。いや、やっぱり違う。
ウィルは気取られないよう、小さく頭を振り、否定する。
違う。この目は愛情とは違う。少なくとも、アリスがショーンを見るあの目と
は全然、違う。
 イツカに注がれるフォレスの優しげな、穏やかな視線。だが、ウィルはそれ
を愛情とは承知しかねて、恐る恐るその正体を探ってみる。どことは言えない
が、それでもフォレスの視線は母親のそれとは異なって見える。ひたすら我が
子の成長を願い、その過程を楽しみながら見守る母親の目。それとフォレスの
目は似て、しかし、異なっていた。
そう、確かに違う。
この男の目は母親のものじゃない。母親の目はこんなんじゃない。
フォレスは母親ではない。当然と言えば当然だが、それでも長く育てた子供を
見る子守の眼差しなら、母親のそれに似て見えても不思議ないのではないか?
しかし、明らかにフォレスの目は母親のあの期待のこもったそれとは異なって
いる。我が子の成長して行く先に待ち受けているのだろう未来が待ち遠しくて
たまらない母親の期待に満ちたそれではないのた。
そうだ。むしろ、逆なんだ。
こいつにはイツカの手を離してやる気なんて、頭からないんだ。だから、母親
の眼差しとはどこか、いや、まるっきり違って見えるんじゃないか。
母親は我が子の成長を、日々の変化を楽しく見守るものだ。だが、フォレスは
イツカの成長を、やがて訪れる巣立ちを受け入れる覚悟を固めつつ、見守って
いるわけではないようだ。
反対なんだ。恐らく。
出来るなら一生、扱いやすい子供のまま、自分の手元に置いておきたい、そう
願っているクチなのだ。
だったら、やっぱり、まともじゃないのか、この男は。つまり、オレの円満な
帰宅は期待出来ない、ってことなのか?
ウィルは焦燥し、緊張の色を濃くする。ならば、自分は本当にここで殺される
のだろうか? 
同僚を自宅に送り届けた、ただそれだけのことで?

 

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