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この馬鹿男、今、何て言った?
 ウィルは呆気に取られ、ティムの水色の目を見据える。その目にはこの部屋
の光景がありのまま、整然と映り込んでいた。まさに鏡気取りの、すました顔
つきだ。彼は自分の発言内容にいささかの不審も抱いていないようだ。ウィル
は聞き間違いでなければと、まず前置きし、それから改めてティムのセリフを
反芻してみた。
ココデ飼エバイイ。
ココデ飼エバイイ。
ココデ飼エバイイ?
ここで飼えばいいだって? 冗談じゃない。
失礼にも程がある。冗談にも限度ってものがあるんだよ。
何様のつもりだ、この馬鹿野郎。
聞き間違いでないことくらい、承知している。確かにそこの馬鹿男はウィルと
言う人間一人をこの部屋で‘飼え’と宣うた。極めて、あっけらかんと。
ふざけるな。
 ウィルは自分の身体が憤りでいっぱいになって行くのを止められなかった。
こんな状況下にいてカッとなること、それは自らをますます不利に陥れること
だと無論、百も承知している。だが、それでもウィルは自分の憤りを押さえる
ことが出来なかった。しかし、それは自分と言う男の器が小さいから、だろう
か? ウィルは自問し、即座に否定する。
いや、違う。そうじゃない。
こればかりは我慢すべきではない。そうウィルは信じる。腹立たしさのあまり
体温は見る間に上昇し、呼吸は荒くなる。当然、脈拍は加速を付けて速まり、
それに合わせて、なけなしの冷静さも失われつつあった。その不利な変化すら
ちゃんと自覚出来ている。だが、ウィルの憤怒は自力では、いや、アリスの力
を持ってしても、収められそうになかった。どうしてもティムの傲った発想が
許せない。そこまで見下されて、憤りを覚えない人間なぞ、絶対にいないはず
だし、いてはならないと信じるからだ。
当たり前だろ? オレの怒りは正当なもんなんだ。
 ウィルは自分は凡庸な男だと自覚している。これまでの己の人生に華々しさ
など、微塵もなかった。
地味なもんだった。だけど、それで十分だろう? 自分で努力を重ねて、自力
で生きて来た。誰かを騙したり、傷付けたり、ずるしないで正直に生きて来た
って誇りを持っているんだ。ちゃんと働いて、女房と子供に生活費を送って、
税金も納めて、孤独な叔母さんの話し相手も偶に、だけど、それでもちゃんと
律儀に努めているんだ。こんな見知らぬ他人に犬猫扱いされる理由はない。
オレは一人前の人間なんだ。見ず知らずの、あかの他人に尊敬されるような、
御立派なところは何もないにしろ。
気付けば、握り締めた拳がぷるぷると小さく震え出していて、ウィルは心底、
この男を撃ち殺したいと思った。
さすがに出来ないけど。
でも、せめて一発、ぶん殴ってから、ここを出る。オレは帰るんだ。まともな
世界に。

 その切なる願いを叶えることが出来るのか、否か。ウィルはもう一人、その
場に存在する男を見やった。残念ながらティムが提案し、同意を求めた相手は
ウィルではない。ウィルには発言権などないのだ。そして、同意を求められた
側、フォレスは即答をしなかった。彼はためらっている様子だった。疑わしげ
にティムを見つめ、思案しているフォレスを見て、ウィルは考えた。初見では
フォレスのこの鈍い反応はティムの提案を却下するための前行動に見え、束の
間、淡い期待を覚えた。
でも、違う。こいつはそんなタマじゃない。
フォレスはウィルが持つ人間としての尊厳など、慮る質ではない。
そうだよな。元々、オレを始末しようとしていた、そんな奴だもんな。妬み、
ひがみ、嫉みが殺人の動機になるような奴だもんな。監禁するより、さっさと
始末しようぜってタイプだったよな、この野郎も。
 ふと、視界の隅に小さく映り込んだイツカの髪が何か言いたげに、ウィルを
見上げている、そう気付く。
それにしても。あの髪、何か気になるな。いや、そんなことを考えている場合
じゃないが。
問題はフォレスの腹の中だ。どう出るんだ、こいつは。
フォレスはティムの提案に反対しているわけではない。却下するつもりなら、
もっと素早く、即座に反応するだろう。冗談はよせと、ティムを一喝すれば、
それでいい。ごく簡単な作業なのだ。それにも関わらず、無言のままティムを
見つめ、立ち尽くしているということ。それはつまり、彼、フォレスの中にも
ティムの提案を受け入れる素地があるということなのではないか?
まじかよ、おっさん。何で、断らないんだよ? 
 ウィルとフォレス、二人が戸惑い、躊躇するのを尻目にティムだけは上機嫌
で、自分の思いつきに至って満足しているらしかった。
「何を躊躇しているんだ? 簡単だろ? こいつを外に出さなければ、秘密は
漏れない。当然、将来に禍根を残すこともない。それでいいじゃないか?」
「こいつが生きている内は安全とは言えない。秘密は確実に守らなければ」
ウィルは目を瞬かせた。
秘密? 何だ?それは。
小首を傾げるウィルに二人は構ってはいなかった。フォレスはティムのペース
に追いつくべく懸命なのだ。
「大体。そんなことをイツカが承知するはずがない。そいつを外に出せだの、
帰してやれだのと日柄一日、声高に叫び続けるに決まっている」
フォレスの指摘にティムは肩をすくめ、戯けて見せた。
「構わないさ。一日中、同じセリフを叫ばせておけばいい」
「そうはいかない。そんな真似、させられない。かわいそうじゃないか」
「おまえはわかっていないな。これは悪い話じゃないぞ。この薄のろ間抜けが
ここにいる間はイツカは絶対、外に出たがらないってことだからな」
ティムはしたり顔でフォレスを見やる。
「そうだろう? 自分の留守中にオレ達にこいつを処分されたら、困る。それ
が心配だから、絶対に自分だけ外に出たいだなんて、駄々はこねない。それに
その内、それも早い時期にイツカも嫌気がさして来るさ。何せ、賢い子だから
な。おまえは見物していたらいいのさ。見ている分には結構、楽しいぞ。二人
の人間はすぐに険悪な間柄になる。この男にこんな牢獄に閉じ込められたのは
おまえのせいだと毎日毎日、一日中、朝から晩まで大声で謗られたら、さすが
のイツカも人間と言う生物に愛想をつかす。かわいそうにイツカはろくに人間
を知らないからな。だからこそ、うっかり持った人間への興味なり、関心なの
であって、所詮は幻想なんだ。実際にごく普通の、生身の人間に触れて一度、
幻滅すればいい。そうすればイツカは懲りるし、おまえの言うことは正しいと
認識もする。二度と人間なんぞに関心は持つまいし、まさに一石二鳥じゃない
か」
「特段、いい案だとは思えないが」
ティムの提案はフォレスの気には染まないらしい。彼は口ごもり、弱腰ながら
も渋っている。フォレスはチラリと、横たわったイツカに目をやった。その目
を見、ようやくウィルにもフォレスの腹の内が垣間見えたように思う。
いや、はっきり見えた。
イツカと二人で過ごす楽しい生活に邪魔者を加えたくない、その腹が見え見え
なのだ。しかし、ティムの方はすっかり決めてしまったようだった。
「よし。これで行こう。当座は十分、しのげる。もし、他にいい案が出たら、
その時は変更すればいい」
「待て。勝手に決めるな。オレはこの男と一緒に暮らしたくない」
「長い期間、続くことじゃない。イツカが人間を嫌いになれば、そこで終了。
二度と再開されることはない」
「気安く言うな。イツカは我慢強いし、根気もいい。その上、頑固だ」
「いいじゃないか。十年でも、二十年でも、好きなだけ、気が済むまで不服を
言わせておけばいい。そうだろ? 十年二十年、イツカがここにいてくれた方
がおまえには好都合なんだから」
「一緒にはいたいさ。だが、オレはイツカに嫌がらせをしたいわけじゃない。
余計な苦痛は与えたくない。だから、これ以上は人間に接しない方がいい」
「それは結局、詭弁だよ。もっとストレートに行こうぜ、フォレス。考えても
みろ。もし、今、こいつを殺してしまったら、変更は効かない。そうなったら
イツカの機嫌は永久に修復不可能だ。いいか。おまえにとって、これは悪い話
じゃないだろう。言い出したのはこのオレだ。おまえがイツカに恨まれること
はない。気楽なもんじゃないか? オレが悪いって、そう言えばいいんだから
な。乗りかかった船だ。オレから“あっち”には報告しておくよ。一人、食い
扶持が増えたって傾くような家じゃないし、問題ないさ。何しろ、“あっち”
はさばけた御気性だからな」

 

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