フォレスは茶目っ気たっぷりにウィンクして見せるティムに突き返す言葉を 俄かには見つけられなかったらしい。丸め込まれた恰好のフォレスはそれでも 渋々、承諾した。 「わかった。そうしよう」 フォレスの同意にティムは満足げに目を細めた。 「それじゃ、おまえ、さっさとあれ、片付けろよ。あんな凶暴な痕跡を残して いちゃ、目覚めたイツカが怯えてしまう。そうだ。マークを使え。大した役に は立たないが、ペンキくらいは塗れるだろう」 ティムの冗談めかした言葉にフォレスは、やっと口元を緩めた。 「何を言う? あいつは案外、器用だぞ。何しろ、水道管の修理が出来る」 ティムは吹き出した。 「おおっ、何と。すばらしい。彼にはありふれた生活が保証されている。神様 もさぞ、お喜びだろう」 ティムの軽口にフォレスは曖昧な笑みを返し、ややあって気を取り直したよう に言った。 「では、イツカを寝室に戻して来る」 「了解。ああ。オレはこの人間に脅し、掛けといてやるよ」 フォレスは一つ、頷き、それから慣れた手でイツカの身体を抱え上げた。この 狂信的な子守りはイツカを自分の物だと信じている。 おぞましい冗談だ。 ウィルはやり切れない思いでフォレスの背中を見送り、それから自分を凝視 するティムの視線へと向き直った。ウィルを見据える、凍り付いた水色の瞳は 威圧的だった。頬に浮かんだ笑みすら、その目の冷たさを隠しきれないのだ。 「既に概要は掴めていると思うが、しばらく我慢していろ。ほとぼりが冷めた ら、出してやる」 「おまえらの気が済んだら、解放してくれるって?」 「そういうことだ」 「恩着せがましいことを言うな。本末転倒じゃないか? どうしてオレが監禁 されなきゃならない? 大体、秘密って何だ? このオレが、何を知ったから 外に出せないと言うんだ? オレはこの部屋に入った、それだけだ。ドア一枚 もこの手で開けていないのに。ああ、ここに金目の物が唸るほどあると知った からか。強盗の手引きでもすると思っているのか?」 ティムは笑ったようだった。 「何だ、何も疑問に思わず、何の想像も出来ていなかったとは。これは驚いた な。嘆かわしいね。自分の置かれた状況すら、的確に把握出来ないんだ、人間 って奴は。これしきのことで心拍数は上がるわ、息は乱れるわ、悲惨だよな、 全く。人間は本当に進化しない生き物だよ。地上に誕生して何年が経とうが、 ボサッとしたまま、変わりなしだ。一体全体、毎日、何をやっているんだろう ね、累々と」 「まるで自分は人間じゃないみたいな言いぐさだな」 彼はもしかしたら、本当に優秀なのかも知れない。だが、それでもあまりに 傲っている。彼の素性は未だ知らない。だが、この世にここまで他者に高飛車 に出られるだけの資格を持つ者など、そうはいまい。ウィルとて、少しくらい なら我慢してもいいと思う。勘違い野郎など、街には掃いて捨てるほどいるの だし、自分を知らない愚か者にはそれなりの可愛げがあることもある。だが、 ティムのそれは度を過ぎていて、到底、我慢ならなかった。 そんなの、大抵、勘違いなんだからな。 人間は自分が思うほどは有能ではない。個性的でもないし、ましてや価値ある 存在でもない。死後、しばらくの間、惜しまれたとしても必ず、代わりはすぐ に現れる。そして、やがて彼が生きていた事実すら、忘れ去られるのだ。その 原理に例外はない。 「思い上がるなよ。いいか? 人間なんて、どれもこれも結局、一緒だ。皆、 母親の腹からみっともない姿で生まれて、何十年後かに必ず死ぬ、そんなもの なんだ。特別なんていない。おまえだって同じだ。オレとも、そこら辺を歩く 若造共とも何ら変わりない。いくら色男でも死ねばそれっきりだ。美術品じゃ ない以上は、な。やがて老い、死ねば、身寄りのない爺さんと同じように安い 木箱に納められる。特別な、宝石に彩られた棺桶になんて縁はない。おまえは ファラオじゃないんだからな」 ティムはその表情を苦笑いに変えたようだった。 「正論だな。そして、だからこそ、オレは人間を軽蔑しているんだよ。人間は あさましく強欲で、その上、学習しない。いるだけ無駄な生き物だ。繁殖には 全エネルギーを注いでいるようだがな」 どういうことだろう? ウィルは底意地の悪そうなティムの笑みを、その意味を計りかねている。彼は 人間を本気で軽蔑し、揶揄しているようだ。まるで自分はその一員ではない、 種類が違うと信じているような口ぶり。 この男、本気で自分は人間じゃないと思っているんじゃないだろうな? ティムの方もウィルの表情を見、観察し、楽しんでいる様子だった。彼には ウィルの戸惑いようが面白いのだ。 「考えてもおまえにはわからないだろう。よし。手助けしてやろう。向こうへ 行って、フォレスがぶち壊したドアの欠片を拾うがいい。そうすればわかる、 オレの言わんとすることがな」 ウィルにはティムの意図するところが見えず、当然、その言葉の趣旨も理解 出来なかった。だが、是が非でも、今すぐにでもティムの言う、自分は当たり 前のつまらない人間ではないのだという傲った意識の根拠を知りたい。もし、 欠片を一つ拾うくらいのことでそれが理解出来るのなら、確かめない手はない だろう。意を決し、玄関のある方へとウィルは歩いて行く。ここへ入って来る 時にはイツカが一人、全てのドアを開け閉めしたから、ウィル自身はどのドア にも触れていなかった。 だが、そんなの、どうでもいいことだろう? ドアの欠片なんか拾ってみて、 それで一体、何がわかるって言うんだ? 家庭用のドアなんて、結局、どれでも何でも同じようなもんじゃないか? 確かに大層な装飾を施されたこの家のドアは分厚く、豪勢だ。しかし、所詮は ドアなのだ。耐火金庫の扉ではない以上、ウィルの安アパートのドアと機能が 大きく異なるわけではない。それなのに何がどう違うとティムは言うのか? 少なくとも人間の、それも決定的な優劣を指し示すような、革新的な物的証拠 にはなり得ない。 たかがドア一枚じゃ、その家の収入の違いしか示せないじゃないか? ウィルは鼻息も荒く、その場へ向かった。ティムの鼻をあかしてやろうと意欲 に燃えて。だが、ウィルはすぐに考え込まなければならなかった。 何だ、これは? 目に映る光景、それは既に相当、訝しいものだった。フォレスは一体、何を 使い、どうやってドアを打ち破ったのだろう? 豪勢な飾りを施されたドアは 五枚共、全てがものの見事に打ち破られていた。 打ち破られるっていうのは適正な表現じゃないな。 ウィルは足下に点在する欠片を見、考え直す。昔、ショーンがビリビリと遠慮 なく破いてしまったトランプのようだ。ちぎったと言う方が適切だった。 でも、ドアは紙じゃない。 落ちたそれの断面を見ると、完全な木製に見えていた物が実はサンドイッチ状 に中に一枚、金属板を挟んだ手の込んだ代物だったとわかる。 これで強度を上げていたってことか。どうりでイツカが重そうにしていたはず だ。 そう納得し、だが、尚更、ウィルにはフォレスの手口がわからなくなった。 挟まれた金属にはしっかりと厚みがある。それを破るなど、簡単なことである はずがない。しかも、あの時、かなり息を切らしていたとは言え、フォレスは 一人きりで、手には道具らしい道具も持っていなかった。 どういうことだ? ウィルは続いてやって来たティムを気にしながらその場に屈み、手近な一枚、 欠片の一つを拾い上げようと手を伸ばした。何の気なしの選択であり、どれで も同じだと思っていた。バイブルサイズの比較的、小ぶりな物を右手で掴んだ ウィルにはしかし、それを持ち上げることが出来なかった。その重さに驚き、 ウィルは目を見開いて、息を呑む。次いで本気で慌てざるを得なかった。顔を 歪めて、奥歯をすり減らしそうなほど力む。それでもウィルはその欠片を持ち 上げることが出来なかった。両腕にありったけの力を込めてさえ。 何て、重さだ。信じられない。 |