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 どれほど承知しかねる理不尽であっても。実際に眼前で繰り広げられる現実
に人は大抵、逆らえない。逆らいようがない。そう割り切るしか術もない。
何せ、命は惜しいからな。一つずつ、着実にこなして行くしかないだろう。
とにかく生きて帰ること、それが自分の命題だと考える。そのためにウィルは
状況をより詳細に把握したいと思った。ティムの言うこと全てが事実なのだと
しても、彼らの状況は今一つ、ウィルには呑み込めなかったのだ。フォレスと
ティムの二人が事実、機械なのだとしても。
何で未来からやって来て、二人がかりでイツカを守らなきゃならないんだ? 
あいつにどんな値打ちがあるって言うんだ? 守るって一体、何から? それ
に。だとしたら、二人を、この世界に差し向けた奴がいるってことだろう? 
誰だ、そいつは? 
ティムの言う“神様”とは即ち、彼らを作り出した科学者だ。だが、その人物
が二人を実際に使っているのか、否かは定かではない。それにイツカの後見人
は別にいるようだ。
イツカがそいつに似たら困るって口ぶりだったからな。つまり、そっちは親族
なわけだ。となると、生身の人間ってことだよな、普通。
ウィルは今、自分が置かれた状況を滑稽だと思う。まるで漫画本の中に入った
ような、間抜けな心地を味わっているのだ。誰が聞いてもつまらない、出来の
悪い駄作の最中にいるようなものだった。作品を選べない不満は否めないが、
それでも我慢しないことには外へも戻れないらしい。ウィルは小さく、気兼ね
したため息を吐いた。
これが子供の頃なら、きっと面白がって、もっと楽しめただろうに。
子供の頃。
ウィルは懐かしく、二度と取り戻せないその一時期を思い出してみたかった。
しかし、未だ嘗て、上手にいや、人並みにそれが出来た例はなかった。ウィル
がはっきりと覚えていることはごく僅かだ。その町は乾いた田舎町で、周囲の
開発の波にさらわれることなく取り残され寂れた、赤土の小さな世界だった。
その町でウィルは生まれ、家族や親戚達と一緒に暮らしていたそうだが、その
記憶は曖昧で家族の話を聞き、後付けされたに近い代物だった。年齢的なこと
を差し引いて考えても、他人はもっと鮮明に覚えているものらしいが、ウィル
の記憶は随分とぼやけて頼りない。頭を打つような大きな事故に遭ったことも
ないし、患ったこともないにも関わらず。
もしかすると。本当にいい思い出がなかったのかもな。貧乏だったはずだし。
経緯は思い出せないものの、ある年、ウィルと家族は町を出た。そして、その
時からようやくウィルの記憶は鮮明な、ごく当たり前のものへと変わるのだ。
故郷を出て、次のもっと大きな新しい町に入る時のわくわくと弾む心地はよく
覚えている。
生まれ故郷の思い出はないけど、でも、初めて、アリスに出会った時の、あの
衝撃は今でも身体中が震え出しそうになるくらい、鮮烈に覚えている。
愛しているんだ、その一瞬から。
 考えてみるまでもなく、一目惚れだった。懐かしさで胸がいっぱいになる。
だが、そんな感傷も長くは保てない。今は非常事態だ。自分が置かれた状況を
綺麗さっぱり忘れることはさすがに出来なかった。玄関の方から時折、強烈な
物音が轟いて来て、それが気に障りもした。だから、ウィルも美しいアリスと
の思い出に酔いしれてばかりもいられないのだ。
うるさい野郎だ。
向こうではフォレスがドアの修復作業に専心している。疲れを知らないらしい
継続的で、根気の良い音が彼の集中ぶりを教えてくれていた。
勝手にやっていろって、言うんだ。自分がやったんだからな。
 ウィルは忙しく立ち働くフォレスの後を追うことはしなかった。幼い子供が
母親のスカートの裾を追い回していれば、その内、美味しい特典にありつける
のかも知れないが、ウィルがフォレスを追ってみたところでストレスが溜まる
ばかりだ。もし、口論でもすることになれば、今度こそ、命が危ない。そんな
貧乏くじを引くためにわざわざ、いかつい大男に近付く気にはなれなかった。
せいぜい、のんびりさせてもらうさ。
座り心地の良い他人のソファーに腰を下ろし、ウィルはひたすら、この持ち主
が目覚める時を待っていた。イツカは当然、体力的にはフォレス達に遠く及ば
ない。だが、二人が無視することの出来ない立場、主人筋にある。それだけは
間違いないのだ。
イツカの言うことを直接聞くかどうかはわからないけど。でも、イツカの後ろ
にいる人、その人のことは尊重しなくちゃいけないようだからな。
フォレスとティムの二人が心底、敬意を払う相手は彼らを作った科学者だけな
のかも知れないが、彼らはイツカの後見人とやらには一目置いている。だった
ら、二人を作った科学者でも、雇い主でもなくとも、子供だと認識しているに
しろ、イツカの機嫌を損ねることは彼らにとっても本意ではないはずだ。
 程なくして、フォレスは工具箱を手に戻って来た。
「ペンキを買いに行って来る。おまえは留守番していろ」
「電話には出ないから、そのつもりで。何せ、ノーギャラだからな」
フォレスは大して、表情を変えなかった。相変わらず、面白くなさそうな顔の
まま、言った。
「電話を掛けて来るような奴は、一人しかいない。出なくて、結構だ」
「誰だ、それは?」
ギロリと一睨みし、気迫でウィルの口を塞ぐと、フォレスは新たな指示を付け
加えた。
「いいか? イツカが起きて来ても、おまえはあれこれ言うな。あれは元々、
寝起きが悪いし、体調が悪いと更に手に負えなくなる。おまえなんかの手には
到底、余るから、見て見ぬふりをしろ。絶対に関わるな。いいな? 様子が変
でも、妙なことを言っていても、口出しするんじゃないぞ」
彼が大真面目な顔で言っていることの意味自体は皆目わからない。だが、調子
良く、ウィルは頷いた。とにかくフォレスに出掛けてもらって、当座だけでも
心底、安心したかった。
「了解。決して関わらないよ」
疑わしげにウィルを眺め、それからフォレスは渋々、出掛けて行った。
 しばらく息を詰め、様子を窺い、戻って来ないと確信するや否や、ウィルは
慌てて、ドアに駆け寄った。だが、ひび割れていたらしい痕跡が残ってはいる
ものの、ウィルが押してみても、引いてみても、ドアはビクともしなかった。
ダメか。
ウィルはため息を吐き、諦めて、リビングルームに戻り、今度はどっかと腰を
下ろした。もうしばらくは立ち上がる理由も、気力もない。
オレ、まるで、留守番の犬みたいだな。
小さく苦笑して、ウィルは手近な雑誌を取り上げ、すぐに放り捨てた。それは、
あまりにも高尚な医学雑誌だったのだ。
そういや、あいつ、お利口さんだった。
そう再認識せざるを得なかった。

 別段、足音はしなかった。何の音も、前触れもなく、イツカは戻って来た。
あれ?
ウィルが見咎め、思わず、首を捻るほど、イツカの様子はおかしい。虚ろとも
つかない無表情。自分の目に映るものを理解出来ているのか、否か、それすら
疑わしいような。イツカは自分の左側頭部をさすりながら、ゆっくりと入って
来た。
「おい、大丈夫か?」
「気分、悪い。頭、痛い。首、痛い。手首、痛い。吐き気がする」
大した抑揚も付けず、それでもイツカは自分の現状をありのまま、正確に伝達
してくれたらしい。ウィルはその症状全てに合点がいった。当然だ。フォレス
にしこたま殴られた、あの後遺症だろう。
「横になっていた方がいいんじゃないのか?」
「喉、乾いた」

 

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