足元がおぼつかないわけでもなさそうだ。イツカはふらついてはいないし、 意気軒昂とは思い難いが、しゃんとしていると言えなくもない。何せ、自分の 足でこの部屋へ戻って来たのだ。だが、その様子は見逃しておけないものでも あった。 どうにも様子がおかしいからな。 こんな半病人を一人、好き勝手に歩き回らせるわけにはいかない。フォレスに 命じられた内容は覚えているが、放置は出来なかった。仕方ない、腹を括り、 ウィルはイツカを追ってキッチンへ入る。水を求め、ぼんやりとした頭はそれ でも、慣れたコースを辿っているらしい。イツカとフォレスは恐らく、常時、 ここで二人暮らしなのだろう。ウィルが嘆息するほど、キッチンは大層な装備 で充実していたが、椅子は二人分しかなかった。 御立派なもんだ。 フォレスは相当、頑張るタイプなんだな。料理好きなのかも知れない、自称、 機械のくせに。 ウィルはイツカは料理をしないだろうと思っていた。死体ばかりを扱う、その 細い指で自分が食べるための肉をさばく様子はウィルには何となく、想像して みたくないものだったからだ。 別に、仕事にしているくらいだから、本人は平気なんだろうけど。 居並ぶ大型冷蔵庫の一つを開け、イツカはペットボトルを取り出した。その キャップを開けようとして、イツカはピタリと動きを止め、それから戸惑った 様子で自分の右手首を見つめる。袖口から覗く手首には未だ、フォレスの怪力 が締め上げた痕が赤黒く染みつき、どうやら満足に働かなかったらしい。 当然だろうな。 「オレが開けてやるよ」 そう言われてイツカはすんなり、ウィルへボトルを差し出した。 「ほら」 「ありがとう」 フォレスの出掛けに放った忠告は的外れなものだったのではないか? イツカ はのんびりとした口調で、しかし、礼を言った。 新手の嫌がらせだったのかもな、あれ。普通じゃないか? 多少、ぼんやりは しているけど。 一口、二口と水を飲み、イツカは暗い顔のまま、ため息を洩らした。相当、 気分が優れないようだ。 「大丈夫なのか? 吐き気とか、しないか?」 ウィルの質問を聞いていないようにイツカは尋ねる。 「フォレスは、どこ?」 「ペンキ、買いに行ったよ」 「ペンキ?」 イツカは焦点の定まらない目でどこか、ウィルにはわからない世界を見据え、 呟いた。 「何十リットル買って来る気だろう? 臭いのに」 「仕方ないだろう? 穴だけ塞いで綴じたって、あんなひび割れ模様のまんま じゃ、みっともないからな」 「フォレスが短気なのが悪いんじゃないか? ステラは少しは味方してやった のにあんなに破いて。考えなし」 「ステラ?」 イツカはウィルの問い掛けなど、全く聞いていない様子でもう一口、水を飲む とペットボトルを手にしたまま、リビングルームへ戻る心積もりらしく、再び 歩き始めた。それを追って、ウィルも歩き出す。まるで夢遊病患者のような、 怪しい歩行者を見捨てるわけにはいかないし、大体、今は恐ろしく暇だ。 他にすることもないから、あのデッカい子守り野郎の代わりに見ておいてやる さ。 イツカはお気に入りらしいソファーの一角に沈み込むように身を横たえて、 そこで眠るつもりか、目を閉じた。 「おい、風邪をひくぞ」 「うるさい」 小さく不服を言い放ったきり、それ以上は何の反応も示さなくなっていた。 「おい?」 まさか、もう、寝入ったってわけじゃないだろ? ウィルは一人しか、子供を育てたことがない。当然、子育ての経験は少ない方 だ。その上、ショーンは手のかからない子供だった。実質、ウィルの子育ての 経験など、ないに等しいのかも知れない。だが、素直で明朗なあのショーンで さえ、そう簡単に親の都合通りには眠ってくれず、時にはウィルとアリス夫婦 二人がかりで苦心して、なだめすかして寝かし付けた。 あんな小さな子供でさえ、そうなんだぞ? 大人なのに、これは早過ぎなんじゃないか? 一日が終われば、疲れてスイッチが切れたように眠ることが出来た子供時分を 懐かしみながら、大人はその日一日を振り返り、ある日は後悔に苛まれ、ある 日はぶり返した怒りに震え、ある日は小さな幸運ににやついて、とにかくそう 簡単に寝付けないと相場は決まっているはずだった。ところがペットボトルを 抱えたまま、イツカはソファーに身を伏せ、既に音もなく眠っている。ウィル には異様としか思えなかった。 これはおかしいよな? 普通じゃないよな? 大丈夫なのか? せめて、寝息くらい、立ててくれよ。 おい。 心配のあまり、ウィルが覗き込まざるを得ないほど、イツカは静かだった。 だが、それも彼にとっては通常の呼吸で、ただ穏やかに眠っているだけのこと らしい。よくよく見れば、厚みの少ない胸が僅かに上下している。それを確認 し、ウィルはようやく安堵してこっそりと一つ、ため息を吐いた。良家の子息 は眠る際もとことん静かに、優雅でいられるものらしい。 寝息も立てずに眠れるのかよ、御令息って奴は。一体、どんなトレーニングを 積んで身に着けたスキルだよ、それ。 呆れ半分、息を吐き直し、考える。フォレスは未だ戻らない。ここにいるのは 自分とイツカの二人だけだ。 正味、オレ一人だけ。つまり、当座、命の心配をしなくても良いってことだ。 身の安全を確信し、ウィルはようやく自分が今、恐ろしく寒い思いをしている と気付いた。 何で、こんな寒いんだ? 地下とは言え、高級アパートなのに。 考えてみると、イツカと入って来た時から寒々しい家だった。だが、それには 理解が出来る。当初は無人だったから、暖房が入っていなかった。それだけの ことだったのだろう。しかし、あれから何時間か経ち、人の出入りがあるにも 関わらず、誰一人として暖房のスイッチを入れなかったらしいのだ。 だから、オレはコートを着ぱなしだったのか。身体が温もらないから脱ぐ間が なかったんだな。 いや。 ウィルは頭を振り、自分の両腕を反対側の手でさすった。 暖房を入れないどころか、冷房の方を入れているぞ、この家。 しかも、室温は急速に、更に温度を下げているように感じられるのだ。 外と変わらないんじゃないか? こうしている間にも、どんどん下がっている ような気がするんだけど? ウィルはコートを着込んだまま、寒さを堪える自分と、薄着のまま眠っている イツカを見比べる。 こいつ、自宅で凍死するんじゃないか? 取り敢えず、コートを脱ぎ、イツカの身体に掛け、ウィルは辺りを見回した。 ドアに鍵穴がないような酔狂な家でも、空調のスイッチはあるはずだ。 それもリビング、その辺りに。 ウィルは根気良く、熱心に辺りの壁一面を探ったが、それらしい物は影も形も 見当たらなかった。 まさか、空調も、勝手に自分で室温を操作するわけじゃないだろうな。 ウィルは嫌な予感でいっぱいだった。さっきからキョロキョロと、熱心に根気 良く探り続けているにも関わらず、照明のスイッチすら、見つからない。 まさか、家中、自分の意志を持っているとか、そんな馬鹿なこと、言わないよ な? 「暑い」 ウィルはまず、聞き間違いだと思った。そんな言葉をこんな冷え冷えとした 地下で聞くはずがないと思ったからだ。だが、イツカは正気で呟いたらしく、 ウィルが掛けてやったコートを払い落とし、改めて、眠るつもりのようだ。 「おい、イツカ」 「邪魔しないで」 「空調はどこで操作するんだ? 凍えちまうだろ?」 「それって」 イツカは眠そうな顔を、それでもウィルへ向けた。 「室温を上げるって、意味?」 「当たり前だろ? この部屋、寒過ぎるぞ。風邪をひくじゃないか? いや、 凍えて死にかねないぞ、そんな恰好で寝ていたら」 「冗談じゃない。せっかく気持ち良く眠りかけていたのに」 「眠る? 馬鹿か、おまえ。おねんねどころか、凍死するぞ、この温度じゃ」 「凍死なんてしない。特異体質だって、言ったじゃない?」 バッと勢い良く起き上がったイツカは、ウィルの鼻先に自分の右手首を突き 出した。 「ほら」 「何だ?」 「回復している最中。だから、邪魔しないで」 その手首に先刻、くっきりと浮かんでいたフォレスの怪力の痕。しみのように 赤黒く広がっていた痕は色がやわらぎ、面積は明らかに小さくなっていた。 |