ウィルは寒々とした高価な地下室で異様なものを見ている。それはどこまで も不可解な事象だった。イツカの右手首に染み込んだ、フォレスの怪力の痕。 いくら何でも、二日や三日の間に解消するはずはないと見積もっていたそれが すっかり変貌を遂げていた。目の前に差し出されたイツカの右手首にぐるりと 一周、薄く、所々、飛びながらと言った程度に残っている、それ。こんな短い 時間に一繋がりの濃い赤紫色の輪が薄れた、切れ切れのしみに変わっている。 つまり、明らかな回復の途中にあるのだ。目に見えたその回復ぶりにウィルは 息を呑む。いや、呑まざるを得なかった。 嘘だ。だって、ものの何十分で、皮下出血が消えるはずがない。 「邪魔しないでよね、本当に」 不服げにイツカは自分の手首を引っ込めて、またお気に入りのソファーに戻る つもりでいるらしい。 「おい、何でそんなに治りが早いんだ? そんなわけないだろ? あんな酷い あざ、消えるには四日も、五日もかかる。ましてや、何十分と経っていないん だぞ。消えるわけがない。回復するはずがないじゃないか?」 イツカは振り返り、怪訝そうな様子でウィルを見つめる。彼は昏倒した直後で あり、どうやらウィルが誰なのか、失念していたらしい。見つめ返すウィルに も、イツカの目に次第、次第に正気が戻って来る様子が認められた。しかし、 所詮、こんな短時間では、本来あるべき全量までは戻って来なかったらしい。 イツカは自分の左側頭部をさすり、痛みの方を忘れられない様子だった。痛み に阻まれ、元通りには頭が回転しない様子だが、それでも俄に自分の置かれた 状況をイツカは理解しなければならなかった。イツカは戸惑うようなそぶりを 見せながら、それでも、どうにか現状の把握は済ませたようだ。 先ず、イツカは僅かばかり、気まずそうな色を目に浮かべた。彼が今、正気 を取り戻して行くその課程にあることは間違いない。そして、その中でイツカ はウィルの正体を思い出し、ウィルには配慮をしなければならないと理解した か、思い出したのだ。 「何でって言われても、仕組みなんてわからないし」 イツカは甘えた口調で手っ取り早くウィルをはぐらかす腹積もりのようだ。 誰がそんな手にひっかかるか。お姉さんのデカい胸なら、ちょっとばかり気が 逸れたりすることもあるけど。 ウィルは腹を立てながら、ふと何かを、覚えのある香りを嗅ぎ取った。 確か。 初めて、間近にイツカを見た時、感じたあの匂い。 あの時、イツカと一緒に車中に潜り込んで来たそれを再び、ウィルは感じた。 甘い匂い。ごく薄い、植物系の、、、。 その香りにウィルが気を取られている隙に、イツカは身を翻す。 「じゃ、後にして。すぐにフォレスも帰って来るし」 早口に言い捨て、イツカは逃げようと企てる。ウィルはすかさず、その手首を 掴んだ。 「逃げるな。仕組みがわからないって、どういう意味だ? おまえ自身のこと じゃないか? 自分の身体なら、おまえが一番、よくわかっているだろう?」 「だって、仕組みって大抵、わかる必要がないものでしょ? どうして自分の 目が見えるのかなんて、ほとんどの人は知らないし、気にもしていないけど、 それで何の支障もないじゃないか?」 イツカは食い下がるウィルを持て余し、焦れったそうだった。そして、そんな 甘えた口調ではぐらかしながら、時間が過ぎるのを待っているのだ。恐らくは 強面の子守り男の帰宅を。 つまり、オレに説明する気がないんだな、こいつ。 ウィルには自分が掴んだイツカの手の冷たさに怯んでいる暇はなかった。 「オレに意味がわかるように説明しろよ。フォレスが帰って来ちまうだろ?」 「ねぇ、ウィル。君、寒いんじゃないの?」 イツカは室温に気付き、その思いつきはヒットだと読んだらしい。彼はふいに 笑みを浮かべ、すっかり落ちつきを取り戻した様子だった。悠然と床に落ちて いたウィルのコートを拾い上げ、それをウィルに手渡すと、イツカは人の良さ そうな笑みを見せた。 「ね、ウィル、寒いんでしょ? 羽織っていた方がいいよ。すぐに温かくなる から。ステラ、温度を上げて。彼の適温まで戻してあげて」 イツカが誰に指図したのか、指図された相手が承知したのか、ウィルには皆目 わからない。だが、イツカはいくらか、ホッとしたような様子で玄関の方向を 見た。 「僕は自分の部屋で寝直すよ。それなら、ウィルには迷惑を掛けないでしょ? フォレスももう、二、三十分で戻るはずだから、そこら辺に座っていて」 「おまえ、オレの聞いていることには、何も答えていないだろ?」 「未だ完治はしていないから、半病人だよ。もう少し優しくしてくれない?」 「笑って、それでごまかす気か?」 「でも」 イツカは微笑んだ。 「有効でしょ?」 ウィルは呆れて、二の句が告げなかった。だが、ウィルが茫然としている、 その隙にイツカは自分の手を抜き取り、まんまと逃げ去ったのだ。 ちっ、坊ちゃん育ちだからって、調子に乗りやがって。 だが、そんな手にかかる自分こそ、甘ちゃんで出来が悪いのだろう。 イツカを責める資格はない、よな。 どうやらウィルはあの、鼻先に微かに感じる匂いにめっぽう弱いようだった。 仕方がない。座って、待つか。 |