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 ようやく戻って来たフォレスはしかし、ウィルの質問を受け付けるような隙
を見せなかった。彼は慌ただしくドアの塗り替えに取りかかる。取り付く島は
ない。それでもウィルは一応、食い下がってみた。
「聞きたいことがあるんだ」
ここまでの待ち時間は結構、長かった。その時間を無駄にしたくなかった。
「一言、二言の雑な返事で構わないから」
「この作業が先だ。オレだって、職を無くすと困る」
彼は一刻も早く、ドアのひび割れていた痕跡をペンキで塗り隠してしまいたい
らしい。
そりゃあ、そうだな。
ウィルは小さく合点する。普段、自分が子供扱いし、保護してやっているはず
のイツカに出し抜かれて、腹立たしさのあまり、我を忘れて蹴り破った跡なの
だ。そんな間抜けな痕跡など、さっさと塗って埋めてしまいたいことだろう。
「じゃ、聞くだけ聞けよ。イツカは別段、普段と変わらなかったぞ。そんなに
寝起きが悪いようにも見えなかった。ぼんやりはしていたようだが」
フォレスは缶をぶら下げたまま、ゆっくりと振り返り、両目の冷たい色をより
濃く深めた。
「余計な口を利くな。ぶっ殺すぞ。それが何より有効な安全策なんだからな。
調子に乗ってんじゃねぇぞ、出来損ないが」
どうやら平素、彼は子供の教育上、差し障りのある言動は慎んでいるらしい。
ウィルは黙るしかなかった。
 昼近くになり、イツカは再び、目を覚まし、リビングへ出て来た。彼は首を
傾げ、その頭の重みが不快ならしい表情を見せた。やはり、万全には程遠いの
だろう。
「おはよう、ウィル。もう、こんにちは、なのかな?」
体調は万全ではない。それでも機嫌の方は幾分、回復して来たようだ。イツカ
はウィルに向けては若々しい、清らかな笑みを浮かべて見せた。だが、自分が
誰に殴られ、昏倒したかは忘れていなかった。フォレスに向き直るなり、微笑
を消し、睨んだのだ。
「出掛けたんならそのまま、家に帰ればよかったのに」
イツカの言う家とやらがどこにある、誰のものなのか、ウィルにはわからない
ことだったが、それを言われたフォレスにとっては毒気の強い嫌味だったよう
だ。ウィルはフォレスが緊張の色を隠しきれずにいるのを不思議に思いながら
二人の様子を眺めていた。
いつだって赤ん坊扱いしているくせに何で、こいつ、そんなに緊張しているん
だ? どんなにイツカの機嫌が悪くたって、ぶっ飛ばせる怪力があるのに何で
だ?
「身体は、大丈夫なのか?」
意を決したように歩み寄ったフォレスがイツカの頭に触れようと、手を伸ばす
と、イツカはその手を寸前で払い落とした。
「触らないで」
凄い剣幕だ。ウィルはそれに驚きながら、ふと猫の牙を連想していた。大男の
フォレスにはイツカの威圧など、子猫の威嚇程度にしか見えないはずであり、
当然、びくつくほどの効果はないはずだった。それにも関わらず、フォレスは
猫嫌いの人間のように怯み、自分の手を引っ込めた。何かあるのは一目瞭然だ
った。
「悪かった。だが、ケガをさせたかったわけじゃない。本当だ。明日か、そう
明後日でもいいから、許してくれないか? ああ、こぶでも出来ているんじゃ
ないのか? 氷を持って来るよ。冷やしていれば、すぐに引くから」
フォレスはイツカの機嫌を取るのに夢中で、ウィルが眺めていることなど失念
している様子だった。
「馬鹿なんじゃないの?」
イツカは極めて冷淡だ。
「不愉快だという記憶ははっきり残っているけど、こぶなんか、もう無いよ。
あるわけないじゃない?」
フォレスはイツカの厳しい口調にたじろいだ。大きな身体をすくめ、彼は所在
なげだ。
「知っているくせに。どうせ、僕はふざけた特異体質だよ。あれしきのことで
二日も三日も寝込むはずがない」
 イツカの機嫌の悪さは体調不良によるものなのか、殴られた腹いせなのか、
ウィルには判断がつかない。ただ酷く不機嫌で、苛ついていることだけは明確
だった。
随分と不安定だな。普通の状態ではない。ケンカの後だから、か。いや。
ウィルは、目の前にいるイツカの横顔を見た。
ごく軽く、だけど、疾患なんじゃないか? 病的な興奮状態なんじゃないのか
な、これは。
ウィルは何とはなく、納得し始めていた。イツカの身体にどんな秘密があるの
かは具体的にはわからない。だが、ただ、身体だけを守りたいのならフォレス
が常時、付いている必要はないはずだ。この土の中にイツカ一人を押し込めて
置けばいい。それにも関わらず、常に身近にいて保護しなければならない理由
があると言うのなら、肉体か、精神のいずれかに何らかの異常でもあるのでは
ないか? 時を経て、イツカは元通りの愛想の良い人間へ回復したようで、実
は未回復だった。むしろ、イツカは次第に気が立って来て、慣れているはずの
フォレスすら、扱いきれない暴君へ変身し始めているのではないか?
冗談じゃない。
ウィルは自分自身のためにそれだけは回避したかった。イツカの気の良い所、
当たり前の常識だけがウィルをここから脱出させる推進力なのだ。そのイツカ
に凶暴化されては、脱出は完全な不可能となる。イツカ本人にOKを出されて
しまえば、間違いなくフォレスとティムによってウィルは闇へ葬られるのだ。
それも至って速やかに。
させるか、そんなこと。
「イツカ」
ウィルが名前を呼ぶと、イツカは険しい表情のまま振り返り、ウィルを見つめ
返した。その視線が対象物を人間と認識し、更にそれがウィルだと理解するの
に五秒は要した。イツカはボーッとウィルを見据えた後、不意に驚いたように
目を丸くしたのだ。
「君、どうして、ここにいるの? どうして、ウィルがここにいるの?」
やはり、彼の頭の回転にはばらつきがあり、不安定を極めているようだった。

 

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