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フォレスが食事の支度をする間、イツカは存外、楽しげで、ニコニコと笑顔 を絶やさなかった。陽の光が射し込むことなど有り得ない、リビングルーム。 周到に整えられたこの部屋が地下にあると一時は忘れ、楽しく過ごせもするの かも知れない。だが、こんな一日が繰り返し繰り返し、永久に続くのでは誰で あれ、きっと、すぐに耐え難い苦行と感じるようになるだろう。 だって。オレには、耐えられない。 ウィルが思い浮かべる幸せな光景には眩い陽射しがまんべんなく、たっぷり と降り注ぐ。広々とした青い芝の上には白い柵が低く巡らされ、その柵越しに ウィルは隣人とありふれた会話を弾ませる。そして、二人の男の視線の先では 近隣の子供達がまるで小犬のようにじゃれ合い、もつれ合い、互いを追い駆け 合いながら母親達の気を揉むのだ。大らかなアリスはショーンがそこら辺中を 駆け回っていても決して、声を荒げることはしないだろう。彼女は楽しそうに 目を細めて、息子の様子を見守りながら毅然と、肝腎な一言を投げ掛けるはず だ。道に飛び出してはダメよ、と。 アリスならきっと、そう言うな。 ウィルは束の間、楽しい夢を見た。そしてふと、夢から覚めてみると、そこ にはイツカの笑顔があった。ニコニコと楽しげで、穏やかな口元は満足そうに も見える。だが、一体、何を見て、彼は微笑んでいるのだろう? そう疑問に いや、奇異に感じるほど幸せそうな笑顔だった。ウィルはほんの一瞬、イツカ は自分、即ち、ウィルの見ていたあの芝生の庭を覗き見ていたのではないか、 そう思った。それで初めて合点がいくような柔らかく、温かい表情だったから だ。イツカはまるで微笑ましい家族団欒の様を見ていたような和らいだ表情で ウィルを見ているのだ。 何で、こんな地下室でそんな表情をする? いや、出来る? 見たって、笑み が零れるような微笑ましいもの、こんな地下にはないじゃないか? 「ねぇ」 「何だ?」 「楽しかった?」 イツカはウィルの問いにそう、尋ね返して来た。おかしな質問だ。ウィルには イツカの質問の出所がわからなかった。何を根拠にイツカはそう問うたのか? 「何でそんなこと、聞くんだ? オレはここに、立派なソファーに座っていた だけだ。楽しかったかと尋ねられるような、そんなありがたいことは何もして いない。出来るわけないだろ? こうして、ただ座っているだけなんだから」 「ああ。そうだね」 イツカは簡単に頷く。 「確かにウィルはテレビを見ていたわけでも、雑誌を読んでいたわけでもない し、音楽を聴いていたわけでもないね」 イツカはウィルが置かれた状況を理解はしているらしく、見ればわかる事実を つらつらと並べ、更にもう一つ、事実を突き付けて来た。 「でも、ウィルは頭の中では何か、見ていたよね。だから、楽しかったかって 聞いたんだよ」 「何で、そんなことがわかる?」 「君の頭が右側に傾いていたから」 「へっ?」 「人間はね、右脳を使っている時は右側に、左脳を使っている時は左側に頭が 傾くんだよ。つまり、君は楽しい光景を見ていた。その頭の中でね」 外からは彼の頭の具合は計れない。まして、ウィルには彼の症状を理解する だけの予備知識はない。だが、どうやら今は動作が安定し、精度も確かなもの を維持しているらしい。それで気分も良いのだろう、そう、ウィルは想定して みた。 だって、そうしないと、まともに話をする気になれないじゃないか? どうせ、また、すぐに綺麗さっぱり、忘れるのではないか、と疑えば、とても 新たな話をする気にはなれないものだ。 無駄骨、折るなんて嫌だからな。 「えらくニコニコしているんだな、イツカ」 「そう? 気付かなかったけど」 ウィルは笑顔で自分を見ているイツカを見つめ返しながら、不可解だと思う。 なぜ、彼は自分に向けて、こうも素直な態でいられるのだろうか、と。 ・・・ 支度が整ったからとフォレスに呼ばれ、ダイニングへと席を移す。キッチン 脇の小ぶりなそこにはごく小さく、丸く盛られた花が飾られていた。心持ち、 薄暗いこと以外にはケチのつけようもない食卓がウィルをも温かく迎え入れて くれた。果たして、テーブルの上の食事がイツカにとって、朝食なのか、昼食 なのか、それとも夕食なのかウィルにはわからない。夜勤明けで帰宅した後、 かなり時間も経っている。イレギュラーな食事なのかも知れない。取り留めも ないことを考えながらウィルはやはり、先ずは自分の疑問を解消しておきたい と考えた。 そう。初歩的なやつを。 先刻まで確かにイツカと自分には一切の面識がなかった。互いの仕事は細い 糸とは言え、繋がっていたし、彼の仕事ぶりには敬意すら、抱いていたつもり だ。それは紛れもない事実だが、イツカから見たウィルは数多いる刑事の内の 一人に過ぎないはずだし、ウィルの容姿がイツカから見て、取っ付き易かった とは思えない。 フォレスに比べりゃ、ましだとは思うがな。 それでも客観的に鑑みて、刑事でありながら不審者と疑われ、頻繁に通報まで された身だ。過度に保護されて生きて来たお坊ちゃんに初対面から親しまれる など到底、考えられない。フォレスはウィル以上に大柄で、強面ではあるが、 イツカから見れば幼い頃から毎日、片時も離れず自分を見守ってくれた子守り だ。イツカがフォレスの姿に不安を感じるはずはないし、警戒心を抱くことも 当然、ないだろう。 だが、オレの外見は初めて見た日にゃ、こいつは危ないとか、怖いとか、そう いうマイナスの方向に取られるもんだ。ましてや、こいつはあんまりたくさん 他人の顔を見ていない。怖いと感じたって、おかしくない。いや、普通はさ、 オレみたいなのには怖くて近寄れないものなんじゃないか。自分は細身で凄い 器量良しなんだ。こんな大男には特に用心するように言われて育っただろう、 普通。 つまり、イツカが初対面だったウィルの車に乗り込んで来たこと、それ自体が 不可思議且つ、有り得ないことだったのではないか? そうだ。どうして、こいつ、オレを怖がらないんだ? やけに気安いよな。 「何を考え込んでいるの?」 「おまえは変わっているな、と思って、な」 「そう?」 「ああ。だいぶ、変わっている。珍種だよ」 「それって、僕自身が変わっているって、意味? それとも、環境が変わって いるから、その結果、変わっているって、意味?」 ウィルは傍らで何食わぬ顔でフォークを口元へ運ぶ、フォレスを見やった。 ウィルの心配にイツカはいち早く気付いたらしい。 「いたって、構わないでしょ? 席を外したって、どうせ聞こえるんだから、 ここにいても、向こうにいても同じだよ」 イツカの指摘はきっと、正解なのだろう。実際、“機械”の彼なら、耳の性能 が我々とは段違いの高性能であっても驚くことではない。 耳が遠い方がよっぽど変だよな。 つまり、プライバシーはなし、か。オレにとっても、イツカにとっても。 気の毒なことに、イツカには物心ついた時から今日まで、全くプライバシーが なかったのだ。それは同情に値する、かわいそうな環境だと思えた。 オレなんて、ガキの頃から親兄弟に隠し事、しまくっていたのに。 「続きはまだ?」 ウィルは束の間、青春時代を懐かしんでいた。イツカはそんな感傷が明ける のを待っていられなかったらしい。イツカに急かされ、だが、ウィルは俄には 話に戻れなかった。やや考え、思い出す。 「何の話だったっけ? そうだ、環境は特異だな。特別、変わっている。で、 おまえ自身もかなり、風変わりだ」 「そう?」 「ああ、変わっている。だって、普通、知らない男の、それも、オレみたいな 厳つい、人相の悪い男の車には乗らないぜ?」 「人相?」 |