二人の車が出て行き、それでもウィルはしばらく用心して、その場で待ち、 それから自分も車を降りた。ウィルが署に入る。すると、姿を見咎めた警備員 達が揃って目を丸くし、駆け寄って来た。 「どうしたんです?」 「何事です?」 「何、やる気の現れさ」 ウィルの軽い気持ちで放った冗談に、いささか失礼なほど、彼らは大笑いし、 笑うだけ笑って、さっさと自分の持ち場へ戻って行く。彼らのウィルへの関心 など所詮、その程度のものなのだ。ウィルはのろまに取り残された若い黒人の 男に尋ねてみる。他に手頃な相手が見当たらなかった。 「な。さっき出て行った東洋人って、監察医のイツカか?」 「そうですよ」 「毎日、送り迎え付きなのか?」 彼は笑顔のまま、頷いた。 「だって、ドクターは良い家の人ですから。お父さんも、お祖父さんも有名な 博士だって、話ですよ。お金持ちならしいから」 「へえ」 そう言えば。 思い出す。署長はイツカの功績にはことのほか甘口だった。確かに仕事ぶりは 有能だったが、署長の口調には正当に評価する以上の媚びのような、へつらう ようなものが混じっていたように思う。 そういうことか。 署長はイツカ本人に、ではなく、その恵まれた背景に反応していたのだ。 お利口だな。出世するぜ、あんたは。 「それに、あんなに綺麗だと一人歩きは危ないですしねぇ」 若い警備員は、そう付け加えた。 綺麗? 怪訝そうなウィルのために、彼は補足する気になったらしい。 「旦那は遠目にチラ、っと見ただけなんでしょう? だから、ですよ。もっと 近くで見ていたら、わかったはずです。ドクターは間近で見たら、それはもう ね、ビックリするくらい、綺麗ですよ。髪なんてピカピカだし、目が凄く綺麗 なんです。声も、可愛いし」 「ファンなのか、おまえ」 彼はこくりと頷いた。照れたふうもなく、むしろ嬉しそうな様子が見て取れる ようだ。 「ええ。大ファンです。ドクターは綺麗でその上、優しいんですよ。僕、傘を 借りたことがあるんです」 「ふぅん。意外といい奴なのか」 ウィルは、警備員のネームプレートを見やった。 「ジョン。仕事に戻った方がいいぞ。キャプテンが睨んでいる」 「はい」 彼はモップを手に警備員室へと戻って行く。彼にはイツカは高嶺の花であり、 一生、近付くこともない存在だろう。彼は警備員とは名ばかりの、ただの清掃 係で、一方のイツカは裕福な家に生まれた監察医だ。 釣り合わない、よな。それに、もし、イツカに少しでも接近しようものなら、 あの男に殺されかねない。大体、イツカ本人が相手にしないよな。 そう考え、ウィルは改めて、イツカの横顔を思い浮かべてみた。 まぁ、綺麗と言うか、美形なんだろうな、あの種類にしては。 ウィルは呟いた後、即座に自分の物言いに人種差別をしているようなふしは なかったか、確認してみる。署長はどう見ても、賄賂に弱そうな男だが、不当 な差別とやらには極端に敏感で、一切、許さないという強い、確固たる信念を 持っている。彼は自分の身体の中に古い一族の血が何割か、流れていることが 自慢であり、生きる誇りとしているのだ。それだけに例え、他の民族のことで あっても、同じような少数派が多数派に侮辱されたり、虐げられたりしている とあっては、彼の民族の誇りが許せないと、激しく憤るらしかった。 うっかり失言して、すっ飛ばされた奴、いるからな。だけど、だったら、金髪 美人の秘書なんか持つなって。女の好みだけはオレ達と同じなんだから呆れる ぜ。 金色の髪、白い肌、青い瞳。ウィルはそれらの内の一単語を耳にするだけで、 別れて暮らす妻を連想する。そして、彼女を思うとその度、狂おしいくらい、 ウィルの胸は掻き乱された。アリスの名を呟くだけで、ウィルの胸から平穏は 見る間に奪われる。 ああ、アリス。 ハイスクール時代と何ら変わらない。今でも彼女を愛している。こんなに気が おかしくなりそうなくらい愛しているのに、なぜ、自分はその妻と離れ離れに 暮らさなければならないのだろう? これは神が、オレに与えた試練なのか? ウィルは強く否定する。自分はそんな辛い試練を与えられなければならない ほどの、大人物ではない。 オレはありふれた市民だ。大層な十字架を背負う理由なんて何もない。オレが 望むのは地位でも、名誉でも、何でもない。愛する妻と、愛する息子と一緒に 暮らす、ただそれだけの人生が望みなんだ。それなのに。 ウィルは再び、今朝の叔母の態度に腹が立って来た。 今朝って言っても、だ。朝っていうのは今であって、あの時間は夜中の終わり だよ。大抵の人間にとってはまだ前日が終わってもいない時間じゃないか! 今日と言う日はせめて、今頃から始まるべきものなんじゃないのか? 一日の仕事を終え、帰宅すれば、またシャロームがあの気味の悪い、不味い 料理を作って待ち構えている。そう思うと残業すら、苦にならない。 金を貰って、シャロームから公然と逃げられるんだからな。勿怪の幸いと言う ものだ。あの七種類こっきりの料理を嫌々、食べなくてもいい。そう思えば、 思いさえすれば、それだけで心は救われるんだ。まさに救済だよ。これが救済 なんだ。だったら、神様なんていらないじゃないか。 ふっふふふ。 ウィルは遠慮するような、忍び笑いに気付き、ハッと我に返る。廊下の暗がり の奥に誰かがこっそり立っていて、押さえきれないらしい低い笑い声を懸命に 堪え、しかし、何割か洩らしている。 「いや。失礼。あんまり、君がおかしいから。堪らなくてね」 |