家族。それはイツカにとって、何より気に染まない話題のようだった。淡い 穏やかな顔立ちに似合わない苦みを浮かべたイツカはウィルを睨み、更に即座 に吐き捨てた。 「僕に君が思うような家族はいない。父親とか母親とかって、そういう近いの はいない」 「だって、おまえは」 イツカはウィルに口を挟ませなかった。 「肉体的には間違いなく、二親ともいたことがあったけど、精神的にはどちら もいなかった。母親とは話したこともない。彼女は僕が床を這う頃には死んで いたんだから」 ウィルは、イツカのわかりにくい言葉を頭の中で反芻してみる。 肉体的には。そりゃあ、男と女が両方いないことには受精しない。当然、両親 が“いた”わけだ。で、母親は早くに亡くなったと。気の毒な話だ。子供には 絶対に母親は、母親だけは必要だからな。 ウィルは離れて暮らす我が子を思い浮かべた。彼には美しい母親、アリスが いる。贅沢とは無縁だが、それなりに清潔で穏やかな生活を送っている息子の 身の周りで欠けているものがあるとしたら、父親の存在だろう。 オレがいないだけ、だ。 ショーンにとっても、父親はいないに等しい状態だ。しかし、ウィルは父親と して自分に出来うる限りの努力をしているつもりだ。一つ一つは些細な、ごく 当り前のことを、それでも一つも欠かさずに。せめて、と思い、手紙を書き、 精一杯の愛を込めて投函した。ちゃんと届いている、そう信じて。 我が子への思いを振り払い、ウィルは目の前にいるイツカへ心を戻す。精神 的にはいない。それはとても深い意味を持つ言葉だと思えたからだ。一人息子 と自分。イツカとその父親。二組の父と子はどちらも離れて暮らしているが、 ショーンは自分には父親がいると思っている。そしてイツカはいないと思って いる。その違いはあまりにも大きい。 もしも。 オレがショーンに自分には精神的には父親はいない、いなかった。そんなこと を言われたら? その様子を想像してみただけで、ウィルの背筋は凍り付くようだった。離れて 暮らしていてもウィルは息子を愛しているし、その気持ちは有るがままの全量 で息子に伝わっていると信じたかった。 「そんなに深刻な顔をしないで。君の家の話じゃないんだから」 「どこの家の話でも、そんな行き違いは気持ちのいいことじゃないだろう」 「行き違い?」 「そうだ。気持ちってやつには形がない。だから、持っているだけじゃ相手に 伝わらない。だから、こんなものぐさのオレだって、ショーンに、息子に自分 の気持ちを伝える努力をしている。そうしなきゃ、行き違いが起こるからだ。 逆説的に言えば、取り返しはつくんだ。おまえ達親子だって」 「ああ」 イツカは短く、簡単にウィルを遮った。 「そんなアットホームな問題じゃない。根本的に違うよ。僕はあの人の家には 入れないんだ。出入り禁止だから」 「出入り禁止?」 ウィルは署長が洩らしたイツカの出自を思い返す。彼の父親は高名な研究者 だ。研究テーマはわからないが、実入りの多い分野であることは息子の暮らし ぶりが示している。経済力と愛情は無関係かも知れない。だが、一般的に裕福 な日常は愛情を育む土壌となりやすいのではないか? だって、金欠で毎日、本気で罵り合う両親を間近で見て育つより、気楽な生活 している両親といる方が子供だって、幸せじゃないか。親だって、日々の生活 に生きるか、死ぬかのレベルで追われていちゃ、我が子を顧みろって言われた ってそりゃ、無理だ。 つまり、ある程度の生活水準にあった方がより良い父親、母親を努め易いし、 子供も安心して育つことが出来る。そして、その条件をイツカの父親は十分に 満たしているはずだった。 アレルギーって言ったって、極端な病気なんだから、機械に任せないで自分の 手元に置いておけば良かったんだ。片親なら一層、心配だろ、普通。 それをしなかった父親の理屈が、ウィルにはわからなかった。 「何で、おまえが出入り禁止になるんだ? 独立したら親と離れて暮らすのは 当たり前だが、出入り禁止となると意味が違うじゃないか?」 「そのまんまの意味だよ。出入り禁止って言ったら、そのまんま」 「それがわからないって、言っているんだ。大体、おまえは病気持ちなんだ。 家族と同居していたっておかしくない。おまえだって退屈しないし、淋しくも ないだろ?」 「余計、淋しいよ」 小さな、弱い声だった。辛うじて、ウィルはその声を聞き取って、どうして いいものか、わからなくなった。あまりにもか細い、痛々しい声音。不用意に 聞き返すことも、あり合わせの言葉を掛けてやることも出来ない、剥き出しの 弱い心そのものだった。仕方なくウィルは俯いたイツカのピカピカと光る髪を 見つめてみた。子供のような光沢を持つ髪。大人のものとは信じ難いツヤだ。 その髪に覆われた頭の中にも、当たり前の感情が詰まっている。もし、イツカ が父親と一緒にいる時、離れて暮らす今以上の淋しさを感じるのだとしたら。 もし、そんな思いをショーンが味わうとしたら。そう連想し、いたたまれなく なったウィルは我知らず、両腕を伸ばしていた。突然、抱き締められたイツカ は驚いた様子を見せたものの、抵抗はしなかった。ウィルはイツカの後ろ頭を 撫で、その髪の感触に感嘆する。今日まで味わったことのない手触りと仄かな 匂い。その二つが相まって、ウィルは不思議な感触を覚えていた。 何かに、例えるなら。 そう。 植物だ。 花とか、葉っぱの、あの、時々、いるじゃないか? ベルベットともつかない、いい手触りの、あれ。ああいう感じだ。 |