ウィルは既に習慣となってしまったため息を吐く。完璧に整えられた他人の リビングルームにしかし、すっかり、ウィルの尻になじんだソファーがある。 おかしな話だった。ぐるりと視線を滑らせてみる。見慣れた壁の絵画。素人目 にも高価とわかる品が並んだ中、ウィルはふと、寂しいと気付く。ゆっくりと 首を捻り、改めて室内を見回した。そう言えば、この部屋にも、他の部屋にも 決定的にない物があった。普通の家なら、幾つでもあるようなありふれた日用 品。しかし、それがこの家にはほとんどない。 鏡と写真立てがないんだ、この家は。 思い起こせば、洗面台にすら、鏡は常設されていなかった。ないと気付いて 戸惑うウィルに傍らからフォレスが腕を伸ばし、隠されていた鏡を引き出して くれ、それで初めて用が足せたのだ。 『出しっぱなしにするな。いいな』 あの念押しは、何のためのものだったんだろう? ウィルはそれが気にかかっていた。何日も彼と過ごしてみて、わかったこと。 あいつは生真面目で、案外、小心だ。そして。 フォレスはイツカの機嫌が悪くなることを心底、恐れていた。 未だに、意味がわからないが、、、。 イツカは毎日、数種類の薬を飲み、その効果で朗らかで、フォレスには扱い 易い、ウィルが思うイツカらしい人格を作り出している様子だった。イツカの 元々の気性はわからない。だが、それでもウィルにも薬は効果を上げていると 理解出来た。実際、普段のイツカは温和で優しい、安定した人格を保っている わけだが、イツカがどれほど笑い、屈託なく過ごしていても、フォレスは常に 警戒を怠らなかった。フォレスが心から安らいでイツカの傍にいる時、それは イツカが寝入っている時だけなのではないか。つまり、睡眠時以外、イツカは どこかにフォレスほどの強い男が警戒しなければならないような、厄介な気質 を隠し持っているということになるのではないか。 切れたら、か。 少しくらい、御愛嬌ってもんじゃないか? 羽目を外させてやればいいのに。 武勇伝なんて、若い内にしか作れないものなのに。 そんな体験談をフォレスに、いや、完全密室育ちのイツカ本人に言い聞かせて みても、大した効果は生まれそうにもなかった。自分は所詮、門外漢なのだ。 ウィルはため息を吐き、それから遠くで小さく、イツカの笑い声を聞いた。 「何だ?」 イツカはピアノの前から立ち上がり、笑いながら戻って来る。ウィルの何かを 見て、笑っていることだけは明白だった。 「何がおかしいんだ?」 「だって、ウィル、ため息ばっかりなんだもの。もちろん、百面相付きでね」 「オレは退屈しているんだ。おまえみたいにピアノを弾いたり、御本を読んだ りって、高尚な暇潰しの技術を会得していないんでな」 イツカは自分の定位置に戻り、そこに腰を下ろした。 「これから会得すればいいんじゃない? もちろん、君はもう帰宅するけど、 身に付けておいて、損はないもの」 「嫌だね。オレにとってピアノは弾く物じゃない、聞く物だ」 ウィルはふと、思い付くことがあって、口を閉じた。 「何?」 「何で、おまえ、出勤しないんだ? こんな長い期間、死人が出ないような、 そんなありがたい街じゃないだろう?」 「病欠だよ」 「仮病か?」 ウィルの口調に咎める気持ちを見付けたのだろう。イツカは少しばかり、表情 を曇らせた。 「違う。首の骨を折った後だもの、休んでも、罰は当たらないでしょ?」 首の骨? 「いつ、折ったんだ? 首なんか折ったら一大事だぞ? ピアノなんぞ、悠長 に弾いていられないだろうが」 イツカは笑った顔のまま、問い返して来た。 「ねぇ、ウィル。フォレスに殴られてケガしないとか、あり得ると思う?」 ウィルは目を瞬かせた。フォレスの怪力ぶりは知っている。 「でも、おまえには手加減するだろ? 手加減したって、言っていたし」 「それが出来ないから一度、修理に戻ったらって、話になるんじゃない?」 「そう言えば、おまえ、フォレスの調子が悪いからどうとかって、言っていた よな」 イツカは目を細めた。 「ね、彼は故障中でしょ?」 「そうだな。手加減したつもりで、結果が骨折じゃあな。それより、おまえ、 えっ、骨折って、大丈夫なのか?」 「首? 大丈夫だよ。行こうと思えば行ける程度だけど、あいにく、今は雪が 降っているからね。気乗りもしなくて」 雪? ひらひらと、静かに降って来る、白い、あれ? 怪訝そうなウィルに、イツカは笑って見せた。 「あれも、雨と変わらない」 「ああ」 「そうだ。スキャンした写真を一枚とカルテを我が家の総責任者に送ったから ね、もうそろそろ果報が届くはずだよ」 「果報?」 「そう。総責任者の英断を得て、君は叔母さんの所に帰るんだよ」 「ありがたい予言だが。一つ、聞いてもいいか?」 「何?」 「フォレス達の言う誰か、御主人様か、そいつと、その総責任者は同一人物か ? 単に制作者が御主人様なだけか。どうも噛み合っていないようなんだが」 それは一瞬だったようにも思う。イツカの整った温和な笑顔が真っ白く凍り 付き、そして、すぐさま、ひび割れた。ウィルにも一目で自分の一言がイツカ の気分を害したのだと理解出来た。そこにある怒り。それは未だ嘗て、ウィル が見たことのない類のものだった。あまりにも静かな、怒り。誰かに牙を剥く ような、感情的な熱さはそこにはなかった。 「君は知らないんだから、仕方がないね。でも、二度とそういう話はしないで 欲しいし、フォレスにも、ティムにも、マークにも何も聞かないで欲しい」 イツカは自分を宥めるように小さく、息を吐いた。 「平たく言って」 彼は一呼吸分、押し黙ることで、自分を奮い立たせたようだった。 「彼らを制作した人物と、我が家の総責任者は別人だよ。僕は総責任者は好き だけれど」 イツカは暗い目を見せた。 「制作したそっちは大嫌いだ。フォレスやティムにとっては敬愛する主人でも あるのかも知れないけれど、僕にとっては疎ましいだけ」 |