『心には様々な面がある。いや。それは違う、かな』 男は一人、大仰に首を捻る。 『そうだ。面ではないな。心は紙が何枚も貼り合わされて出来ているわけでは ないはずだ。そう、紙と言うよりは、むしろ、水なんだ』 その男は教壇で一人、呟いていた。そんな戯言を聞いていたのはウィル一人 だけだったが、ウィルは当時、大真面目にその話に耳を傾けていた。 自嘲したい思いで、ウィルは遠い日の教室を思い出していた。 ・・・ 彼は概ね、評判の良い教師だったが、時々、カリキュラムとは無縁の何か、 いや、どこかおかしなことを呟くことがあった。生徒達は要領良くその部分を 間引き、聞き流したが、ウィルだけはむしろ、そこだけを熱心に聞いていた。 彼の独白は続く。 『そうだね。水だ。心は水なんだ。そして、心を形成する感情は球体なのかも 知れない。そうだ。決して、心は多色使いの、だが、薄っぺらな紙ではないん だ。水のように様々な物を呑み込み、己の一部と出来るものなんだよ。だから こそ、それに包み込まれて存在する感情はやはり、球体なんだね』 消毒液の臭いのする男だった。小学生を相手に何を語るのだ? その好奇心が ウィルを教師へ繋いでいたのかも知れない。今、思い返してみると、彼が消毒 液臭かったこと、それ自体がおかしかった。 だって、職業柄、匂うなんてこと、あるわけがなかったんだから。 『考えてごらん。感情は球体なんだ。様々な色や大きさを持つ球体を、数多く 内包したもの、それこそが心なんだ。他種類の球体を内包しているからこそ、 心には価値がある。いや、たくさん、バリエーションがあればあるほど、その 心には価値があるんだ』 ありがたいような、だが、全く根拠もなかっただろう話を聞かせてくれたあの 教師は今、どこにいるのか。調べるまでも無い。ウィルは答えを知っている。 ここの所、彼は一ヶ所に定住しているし、当分、その住所は変わらない。 アンダーソン、あいつは嘘吐きの、人殺しだ。 ウィルはイツカの怒気に気押され、その弾みにうっかり、とんだ過去を思い 出した。時々、ウィルは思い出すのだ。ずっと昔、授業を受けていたあの教師 を。彼は善人面で生活しながら、ある日、自分の妻を蹴り殺した。 教壇ではたまにはあんな熱弁もふるっていたくせに。 そんな男の話をまともに聞いていた自分がどうしようもなく愚かで、間抜けに 思えてならなかった。 あの手の妄想を大真面目に聞くなんて。もしかしたら、オレにはシャロームと 同じ血が流れているのか。 ウィルは一人合点した。 そりゃあ、そうだよな。あいつ、オレの叔母だもんな。同じ血には違いない。 じゃ、オレも人生に行き詰まったら、あんなインチキ宗教にはまるのか。毎日 毎日、心を磨くんだって、床なんか、磨くようになったら終わりだよな。 「君って、本当に現実から一々、器用に逃避出来るんだね。面白くも、特殊な 特技の持ち主だよ、ウィリアム・バーグ」 イツカの冷ややかな声にウィルは我に返る。鼻先のイツカは不機嫌この上ない 冷たい目をウィルに向けていた。 「今は何を思い出していたの? 懐かしい思い出で現実逃避していたんだ?」 「そう気色ばむなよ。おまえの顔、結構、怖いぜ」 「御挨拶だね。君が嫌な思いをさせているんじゃないか」 「オレは不思議だって思ったことを正直に聞いただけだ。それがおまえの機嫌 を損ねる質問だと、知らなかったからな」 「薄々、おかしいと思っていたくせに。あらかたは知っていたようなものじゃ ないか」 「嫌な思いをさせたことは謝るが、故意じゃない。これ以上、からまれるのは ごめんだね」 「聞き捨てならないね。一体、僕が、いつ、君にからんだ?」 「今、この状態を世間一般ではからんでいるって、そう言うんだよ」 ウィルはイツカの笹の葉の形をした目がきゅっと吊り上がったように見えた。 「おまえが嫌いなのはフォレスとティムを作った奴なんだろ? どんな経緯が あるのか、オレにはさっぱりわからないが、今、おまえがオレに凄んでいるの は明らかに八つ当たり行為だ」 「八つ当たり?」 イツカは更に表情を険しいものへ変えた。イツカの憎悪。それはウィルの目 にもはっきりと見て取ることが出来、その上、震え上がるに足るものだった。 切れたら怖い、か。 呪文のように唱えるフォレスの心境がウィルにも少しだけ、実感出来たように 思う。しかし、ウィルは引く気はしなかった。 オレが引くわけにはいかない。 |