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 薄茶色の犬は柵の向こう側でじっとウィルを見上げている。彼の容姿は地味
ながら、真面目な顔つきはなかなか可愛らしい。しかし、残念なことにウィル
はその犬から好意なるものを示されたことがなかった。吠えられたことはない
のだ。だが、それはウィルが彼に認められているからではなかった。
そう。オレの力じゃない。
ウィルがイヌに会う時、そこには必ず、彼の主人、マークがいて、ウィルとも
和やかに談笑していた。だから、イヌは吠えなかったのだ。
主人のために吠えないって、それだけの話。
犬はウィルには関心を示さなかった。主人の知人だと認識はしているものの、
決して、自分の友人だとは思っていなかった。当然、マークがいなければ。
それも、自分の家の前に立っていれば。
そりゃあ、火がついたように吠えるんだろうな。それが仕事だもんな。
猛烈に吠え立てられるものと覚悟し、諦めて、その時を待つ。もうじき、彼が
吠え始めるのはわかりきったことだし、番犬に吠えられるのは致し方ないこと
だ。ただ、またもや、番犬の吠え声を聞いた隣人が通報するのではないかと、
それが気掛かりで、居た堪れないのだ。
軽く、ごく軽く、マークが気付く程度にしてくれよ。
その切なる願いが聞き届けられるのか、否か、それだけが今、ウィルの関心事
だった。
オレにも、体面ってものがあるんだ。二度も、三度も、刑事が通報されるわけ
にはいかないんだ。だから、激しくは吠えるなよ。軽く、にしてくれよ。
 心の内では犬に向かって両手を合わせながら、ウィルは立っている。だが、
何秒経過しても、イヌは吠えない。ウィルは不審に思い、恐る恐る見下ろして
みた。彼は当たり前に立っている。ウィルと目を合わせていても吠えないし、
警戒しているふうもない。それどころか。ウィルはその様子を見、瞬き、自分
が見ているものを信じることが出来なかった。
「えーっ?」
そんな悲鳴を上げるほど、ウィルは動揺したらしいのだ。
「嘘だろ?」
驚いたことにイヌは普段、腰の上に丸めてしまい込んでいる尾をふるふると、
可愛らしく振って見せている。ワン、ワン。目が合って初めて、ウィルめがけ
て吠えた。だが、その声は予想しない調子だった。署長の美人秘書、サンドラ
に甘える時、あの声と同じトーンなのだ。
もしかして、オレを歓迎しているのか?
ウィルは他人の屋敷の門扉を前に、茫然と立っていた。端から吠え立てられる
ものと覚悟を決め、車を降りた。その分、余計に犬の予想しない歓迎に驚き、
戸惑った。
「何で?」
誰に、ともなく、ウィルは声を上げていた。
だって、そんなこと、あるわけない。いつもアホを見るような目で、チラッと
一瞥するだけじゃないか。なのに何で、今日はそんな好意的なんだ?
犬は柵越しにウィルの膝に鼻を擦りつけ、フンフンと楽しげで、ひどく友好的
だった。
「おまえ、正気か?」
ウィルは犬にそう尋ねていた。
「悪い物でも、食ったんじゃねーのか?」
そんなことの方が有り得ないか。
 ウィルは首を傾げてみた。何らかの理由があればこそ、犬は態度を改めたの
だ。原因なしに態度を変えるはずはない。だったら、その心変わりの理由とは
何だろう。
「ウィル。何をやっている? こっち、こっち。早く。待ちくたびれたよ」
明るい大きな声に顔を向けると、庭先からマークが歩いて来る様子が見えた。
彼の後方、まるで背景のようにそびえ立つ、大層な白亜の御殿とマークは良く
似合う。映画のようだ。クリーム色のセーターを着たマークは突っ立ったまま
のウィルの挙動を訝しいと感じたようだ。
「何、呆けた顔しているんだ? 具合でも悪いのか、外が久しぶりだから」
「いや」
と、ウィルは足元の犬を指し示した。
「こいつが」
「イヌが?」
「あんまりオレに好意的だから面喰らっちまって。一体、どうしたんだろう、
おかしいよな? もしかして、これは違う犬なのか?」
マークは同調しなかった。ウィルの疑問が的外れなものに思えたらしい。
「別に、そんなに驚くほどのことじゃないんじゃないのかな」
「何? 不思議じゃないのか? おまえ、犬の心理も分析出来るのか?」
「分析も何も」
マークは苦笑いし、手を振って否定した。
「だって、今、君からはイツカの匂いがするじゃないか? だからだよ」
ウィルは瞬いた。
 パチパチと、いささか間抜けな音を立てて、ウィルの瞼は動いた。イツカ。
地下で暮らす、お坊ちゃん。彼の自宅に長いこと、留め置かれて、いや、閉じ
込められていた。イヌがこの身からイツカの匂いを嗅ぎ取ったとしても、何ら
不思議はない。何しろ、彼は恐ろしい嗅覚を持つ、犬なのだ。
つまり、こいつはイツカに対して、尻尾を振っていたんだ?
ここにいないイツカに対して、愛想良くしていたんだ?
目の前のオレじゃなくて、遙か彼方の地下にいるイツカ、に。
 マークは気落ちしたウィルを慰めるように、優しげに言い加えてくれた。
「イヌはイツカのことが大好きなんだよ。だから、嬉しかったんだろう。思い
がけず、君からイツカの匂いがしたんではしゃいでいるんだ。悪く思わないで
やってくれ。フォレスが嫌うから、あの家にはイヌは連れて行けなくて。ごく
たまに署で会うくらいなんだ」
「こいつ、そんなにイツカが好きなのか?」
マークは頷いた。
「まぁね。僕よりもイツカの方がずっと好きだね。会うと、本当に喜ぶもの。
イツカに会った日はそれこそ、一日中、御機嫌でウキウキだよ」
目に浮かぶ光景だ。イツカの、あの時折、鼻先を擽るような甘い匂いは犬には
殊更、たまらない刺激になるのかも知れない。
「あいつ、犬に熱愛される特異体質でもあるのかね?」
「犬も美人が好きならしいからね。それより、中に入ろう。朝食は未だだろう
?」
ウィルはマークと連れ立ち、歩き出す。犬は嬉しそうにはしゃぎながら足元に
付いて来た。その愛らしい様子をイツカ本人に見せてやれないのは残念なこと
だった。
イツカに向けて、せっせと尻尾、振っているのに。
イヌは本当に楽しそうだ。それがウィルには余計に心淋しく見えた。
あいつを連れて来れたらいいのにな。

 

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