自分は夢を見ている。思考ははっきりとしない。そんな中で今、自分が見て いるものは夢の一端に過ぎないだろうと、ウィルは高を括っていた。 だって、あまりにもおかしな光景じゃないか。これが現実であるはずがない。 不可解な夢だが、ウィルはその唯一の登場人物には心当たりがあった。案外、 よく見知った男だ。この空間には彼の持つ匂いが漂っている。匂いまで伴って 出演しているのだ。当然、本人に違いなかった。そう考えながらウィルは鼻先 をひくつかせ、更にその匂いを吸い込み、自分の憶測を事実として固めようと していた。彼らしい微かに甘い香りがウィルの元まで流れ着き、少しばかり、 ウィルは良い気分になっていた。 本当に良い匂いだ。ぼおーっとして来るのが難点だけど。気取って言うなら。 スパークリングワインみたいに一粒ずつ、気泡がこう、鼻先で弾けて、豊かな 香りを放つような、そんな感じかな。 こんな淡い芳気に包まれて暮らすことが出来たら、きっと毎日は至福だろう。 その香りは彼が意図的にまとった、人工的な物ではない。つまり、香水でも、 整髪料でもなく、生まれつき持ち合わせた偶然の匂いならしかった。 香水いらず、だ。金持ちのくせに、安上がりに出来ていやがる。自分の悪臭に 悩んで、対策に結構な大金を注ぎ込む貧乏人は多いんだぞ。 どこまでも恵まれた幸運な彼に妬んで、ウィルはささやかな悪態をつくが、 それはごく小さな不満だった。心地良い刺激をもたらしてくれる、ありがたい 美点を前に、その持ち主にケチを付ける筋合いはない。例え、彼自身にウィル にサービスをする気はなくとも、自ずとその香りはウィルを心地良い安らぎの 世界へ誘ってくれるのだから。ウィルは改めて、自分の見る夢の中にいる彼を 見つめる。白い、何もない部屋の壁際に立って、彼はこちらを見上げていた。 ピカピカとよく光る髪だ。しかし、その髪を照らす光源は何だろう? ウィル は自分がいる、いや、実体はないだろうが、それでも自分の意識が見る夢の中 の部屋を見回してみた。 特筆するような物は何もない。ただ、白い壁には何列にも渡って電球が設置 されていた。部屋の高さは普通だが、右を見ても、左を見ても、果てがない。 部屋と言うよりは広い廊下なのかも知れない。どこまでも続く両側の壁には十 か、十一列ずつ、剥き出しの電球が並び、一つの球も切れずに点灯していた。 この部屋の持ち主はよほど暗いのがお気に召さないらしい。 眩しいくらいだ。 ウィルは眩さに目に疲れを感じて、強く瞬き、更に指先で擦ってみた。本当に 無駄に明るい、非現実的な世界だ。そして、その中に立つ白衣の彼も、普段の 彼とは違うように見えた。ただ、それが着衣の違いがもたらす印象のためなの か、否かはウィルには判断がつかなかった。 まさか、お医者さんのコスプレして遊びはしないだろうし。 意図はわからない。だが、普段通りにも見える穏やかな笑みを浮かべて、彼は 真っ白い、妙に眩しい部屋でウィルを見上げていた。 イツカ。おまえはそこで一体、何をしているんだ? ウィルは以前にも、イツカの現れる夢を見た。初めて、彼に会った当日のこと だ。ウィルが通った、昔懐かしい小学校の教室。その備品室でウィルは一つの 瓶に心を惹かれ、その覆いを取り去った。その中身こそが水色の液体に浮かぶ 彼の首だったのだ。 あの夢も随分、とんちんかんだったよな。 目を閉じていた“彼”がふいに目を見開き、ニヤリと笑んで見せた時、ウィル は心臓が鉄の爪に握り潰されるかと思うほど驚き、内気な叔母、シャロームが 男の寝室に駆けつけて来るほどの悲鳴を上げた。目が覚めた時、己のあまりの 情けなさにウィルは心底、ばつが悪かった。 間抜け極まりないよな。こんな図体で夢を見て、それも“さらし首”に微笑み かけられて、悲鳴を上げるだなんて。ざまぁねぇ。 言い訳をするなら。あの時はイツカの容姿が意外で、それが気にかかっていた ためにそんな夢を見ただけだ。そう自己分析し、ウィルは改めて首を傾げる。 だったら、何で、今日はこんな夢を? この夢も、相当おかしな代物じゃない か? ・ ウィルは自分がこんな夢を見る理由がわからなかった。今回、この夢を見る に至った理由とは何だろう? それがわからず、ウィルはまごつく。 だって、前回に輪をかけて、おかしな夢だぜ、これは。 機嫌の良さそうなイツカ。彼はウィルを見ている。自分の家にいる時と同じに 穏やかで、人の良さそうな顔をしていた。見慣れない衣装に身を包んでいるが ために、ウィルが違和感を覚えてしまった、それだけのことなのだろうか。 こいつはいつもと同じだ。苦のなさそうな顔している。内面は複雑なんだろう けど。 その感想をウィルは喉の奥深くへと飲み込んだ。今、口にしても、何の意味も ないことだからだ。ウィルが今、しなくてはならないこと、それは考えること だけだ。目前の現状をつぶさに観察し、そこから未だ、目に見えていない事実 を導き出す必要があった。 つまり、何が言いたいんだ、こいつは。 ウィルの問いに答えるように、イツカの唇は僅かばかり動いた。彼は何かを 喋っているはずだが、ウィルの耳には何も聞こえない。声どころか、物音一つ 聞こえなかった。この夢の中でウィルは未だ、何の音も聞き取ることが出来ず にいる。イツカは少しばかり焦れたような表情に変わる。つまり、とウィルは 考える。イツカが今、見ているウィルはもしや、動いていないのではないか? この夢の中で自分がどんな恰好をしているのか、それすら見当もつかないが、 イツカが見ている自分は呼ばれても、一向に動こうとしないのだろう。それで イツカの表情は曇ったのではないか。焦れったそうなイツカは先程よりももう 少し早く、大きく唇を動かした。声を大きくしたのかも知れない。温厚な彼に しては珍しく強い表情だが、それでもウィルには何も聞こえなかった。近くに 行ってやろうにも、その術もわからない。ただ不満そうな色を浮かべたイツカ の表情を見守ることしか出来なかった。 彼の両手は塞がっている。必然的にどんなに焦れても、ウィルを手招くこと は出来なかった。手招きしたいような、そんな素振りは見せたものの、イツカ には自分の抱えたそれを手放すことが出来ないらしい。 下ろそうにも、置く所もないよな。 床に置くわけにはいかない、それ。ウィルはそれと初対面だと言い切る自信が なかった。目を閉じたイツカ。驚いたことに夢の中のイツカは自分の胸に自分 の首を抱えていたのだ。 |