きっと。懐に抱いた真新しい枕の匂いがウィルに現実の世界を忘れぬように 釘を刺しつつ、ウィルが夢の中に引き擦り込まれないよう、引き留めてくれて いるに違いなかった。ウィルは自分を呼ぶイツカへ近寄ることも出来ずにいる のだ。 イツカにはオレが見えているのに、オレには傍に行ってやることも出来ない。 イツカが見ている自分には手足があるのだろうか? 恐らくは今、自分は夢を 見ている。いつものように枕を抱え、自室のベッドの上でこの夢を見ている。 真新しい枕、それはウィルの長い留守中にシャロームが誂えてくれた日用品で あり、同時に彼女から甥へのプレゼントだった。ごく質素で、実用的な品選び は彼女らしいとも言えるが、それは彼女が親族で一人、新興宗教に入れ揚げて いる、その所以となる気質のせいだとは言えなかった。 だって、単なる遺伝だもの。 ウィルの親族は皆、地味で、堅実な買い物を好んだ。 シャロームが変わり者だからってだけじゃない。元々、我が家は非常に地味で 尚且つ、実質志向だった。 幼い日々。その一コマを彩る記憶は夢現な今こそ、不思議に鮮明だった。 いつもは昔のことなんて、ちっとも思い出せやしないのに。 クリスマスはウィルの育った家では早足に駆け抜ける行事だったが、それでも 部屋の隅に安物のフェイクツリーを設置し、楽しむことは怠らなかった。その ツリーに余所の家では何が飾られて、何がスタンダードであるのか、ウィルは 知らないまま、大人になった。とにかく当時、ウィルの家でクリスマスツリー に飾られる物とはクッキーやキャンディーなど、食べられる物ばかりだった。 加えて、皆で交換する品も経済的な理由もあっただろうが、ごくささやかな物 だったし、その種類も極めて、実質的だった。例えば、ある年のプレゼントは 洗剤だった。自転車の汚れを落とす、あの洗剤。 それが当たり前に嬉しいと思ったんだから、余所を知らないというのは幸せな ことなんだろうな。 赤茶色の土が剥き出しのまま、踏み固められたような道路に面した、小さな 家。そこに幼いウィルは住んでいた。 いつもは記憶障害かって心配になるくらい、全く思い出せないのに何で、今日 に限って思い出せるんだ? 夢の中にいるから、か? 本来、白いはずの家の壁はいつも、車が走り抜ける度、巻き上げられる赤茶色 の土埃に塗れ、冴えない外観を晒していたものの、その内側でウィルと家族は それなりに楽しく過ごしていた。 風が強い町だった。いつも土埃が酷くて、それで母さんは洗剤には格別、拘り を持っていたっけ。匂いなんていらない。落ちなくちゃ、意味がないのよって 毎度、言っていたな。つまり、非常に現実的だったんだよ。あれだけ堅実で、 何でオレ達家族は貧乏だったんだ? いや、貧乏だから、質素にしていただけ か。 ウィルは何か言いたげに言葉の通じない“ウィル”を見上げているイツカを 見やった。彼は心底、何の反応も示さない“ウィル”を不審に思い始めている 様子だった。その暗い表情を見、ウィルは気の毒だと思った。 この、オレの夢の中にいる“イツカ”は現実のあいつとは違う。実際には存在 しない、言わば、夢を形作る欠片で。パズルのパーツみたいなもんだ。当然、 泣こうが、喚こうが、どうでもいい話なんだ。 知っていながら、ウィルは割り切れなかった。 悪いが、おまえが今、見ている“オレ”はオレじゃない。だから、何一つして やれないんだよ、イツカ。 そんなウィルの声が届いたのか、イツカは他には誰もいず、物音一つしない “ここ”で小首を傾げた。さも不思議そうにイツカは首を傾げ、次いで自分が 抱えた“それ”を見下ろした。イツカがしたこと。それは夢とは言え、ウィル には意外なことだった。彼は自分の抱えた首に話し掛けた。その声はやはり、 ウィルには聞こえなかったが、次の瞬間、自分が目の当たりにした光景に息を 呑んだ。 えっ? 目を閉じていた“それ”は前回と同じように、かっきりと目を開き、その目は 当たり前のように動き出した。イツカの胸に抱えられていて、彼の視界は低く 設置されていて、手間取ったようだが、それでもそこにウィルがいると知って いたように、“それ”は迷わず、ウィルを見上げたのだ。 前と同じだ。ニッカリ笑って、オレを驚かせるつもりなんだろう? ウィルは予想し、結果、自分はもう驚くことはないと思った。二度と夜更けに 叫び声を上げて、シャロームを慌てさせることはない。そう信じた時だった。 『相変わらず、鈍臭い奴だな、ウィリアム・バーグ』 その首が放ったくぐもった一言は、聞こえたのだ。身も凍る、そう感じた時。 「ウィル」 今度は聞き慣れた声だった。 「気分が悪いのなら、外に出て構わないよ」 ハッとして、ウィルは目を瞬かせた。一つ、瞬く度、冷たい空気が目を洗い、 その度毎にウィルは自分が戻って来ると感じた。 そう、戻って来る。夢の中から、この現実に。 ・ ・ ・ ウィルは自分が感じる匂いに不快を覚え、眉間に皺を寄せた。嫌な匂いだと 思った。幾つも混じり合った、複合的な臭気。どれも知っているが、決して、 生涯、ウィルには親しむことの出来ない匂いだ。そんな冷たい空気の向こう側 で見慣れない恰好をしたイツカが心配していると言うよりはむしろ、邪魔そう にウィルを見ていた。 「具合でも悪いんじゃない? 吐きたいなら、そこらに吐いてくれて構わない けどね、倒れるのはやめて。君が倒れたら、中断しなくちゃならないでしょ。 死体より、生きた人を優先しなくちゃならないのは道理だけれど、実際、迷惑 だからね。わかるよね」 白衣のイツカ。マスクをし、特殊グラスを掛け、キャップで髪を覆ってしまう と、ウィルにはそれが誰なのか、実際、よくわからなかった。 「君、夢遊病の気でもあるの? どうやって今日、ここまで来たのか、それも わからないんじゃない? 大丈夫?」 イツカは今、両手に手袋をはめている。薄い緑色のそれは掴むと、ぞっとする 手触りのする代物だ。そして、その指先は全て、血に染まっていた。つまり、 彼は勤務中なのだ。 「立ったまま、夢を見るなんて。そりゃ、また相当、器用だね、ウィリアム・ バーグ。敬服するよ」 イツカは手厳しい皮肉を放ち、再び、自分の仕事を再開していた。 |