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 ウィルは考えてみる。自分が今、存在するこの空間の位置と時間、そして、
それが現実か、否かを。
どこだ、ここは?
先ずは白々とした独特の照明が目に入る。隈無く辺りを照らし、影一つも生み
出さぬよう、工夫された照明の下、作業をしているのはイツカ一人で、ウィル
は単なる傍観者に過ぎなかった。棒立ちのウィルを取り囲む壁面と、効率良く
並べられた器材。見覚えはあるものの、ウィルには馴染みのない物ばかりだ。
病院のようにも見えたが、ここは生きようとする者のための場ではなく、既に
“終えた”者のための空間だった。当然、生の匂いはしない。ここは死者を、
死体を切り開く場所だ。立ち入ったことはあった。だから、ウィルもこの様子
くらいは承知していたのだ。
むろん、その時は作業中じゃなかったが。
ウィルは繰り返し瞬き、吸いたくもない空気を吸い込む。マスクを通し、吸引
される空気はやはり、生涯、決して、慣れることも叶わないものだ。
これは現実なのかな。ラボの夢でも見ているんじゃないのかな、オレ。
 ラボであると認識しながら、それでもウィルは半信半疑だった。目に見える
もの、肌に感じるものをそのまま、鵜呑みにすることが出来ない。どうしても
自分がラボにいると認めたくなかった。だが、何度、新たな夢だと思い込もう
としても、上手く行かない。ウィルを取り巻いた状況は間違いなく、署の地下
にあるラボと呼ばれるスペースに違いなかった。
でも、やっぱり、夢かも知れない。
ウィルは飽くなき抵抗を続ける。
だって、オレが、このオレが使用中のラボになんか、入るわけがない。子供の
頃、あんなにカエルの解剖が嫌だったんだ。それなのに何で、こんな所に入る
ものか。
ウィルは解剖と言う言葉すら、嫌いなのだ。それをわざわざ、好き好んで立ち
入るはずがなかった。
オレは血が、特に身体の内側に流れる血が怖い。なのに何で、こんな最も質の
悪い所に来ているんだ? そんなヘマ、やるわけがないよな?
何が何でも否定したい。しかし、鼻先にマスクの感触を感じ、その向こうから
否が応でもウィルめがけて押し寄せる悪臭がある。
血と薬品の入り混じった、吐き気のする匂いだ。こんなの、普通の家にはない
し、あるわけもない。つまりは。
「未だ、夢の中なんだ?」
投げつけられたイツカの言葉は微妙に悪意を感じさせるものだった。一人きり
立ちっぱなしで忙しく作業を続けるイツカ。
不機嫌だな、こいつ。
今、彼を苛立たせているものは一体、何だろう? ウィルは首を捻った。仕事
の内容が彼を苛立たせているのか、それともぼんやり眺める“暇そうな”同僚
の態度がそうさせているのか、ウィル自身にはわからなかった。ただ、イツカ
の声が機嫌の悪さを物語っていること、それだけはわかった。珍しくイツカは
カリカリと、負の感情を露わにしているのだ。
相当、御機嫌斜めだな。
「早く正気に戻ってよね。ま、黙っていてくれた方が邪魔にはならないけど」
 ピシャリと言い捨てるイツカの声にウィルは背筋を正し、改めて自分を振り
返る。もし、本当に寝惚けているのなら。ウィルはごく小さく息を吐いた。
寝惚けているのなら目を覚まさなきゃ。だって、勤務中だってことだからな。
だが、覚醒にはもっと強い、決定的な刺激が必要だった。例え、イツカに皮肉
で連打をされても、頬に痛みは感じない。ウィルにはもっと強い、確実に目を
覚ます刺激が必要なのだ。ウィルはゴシゴシと自分の両目を擦ってみた。右手
の下には右の眼球が、左手の下には左の眼球が丸く、しっかと健康な手応えを
返して来た。しかし、手に受ける感触はそれだけではなかった。ウィルはぞっ
として、慌てて、両手を放り捨てるが如く素早く下ろした。自分の瞼に触れた
感触は不快なものであり、その肌触りはウィルの背を竦ませた。それは業務用
の手袋だったのだ。そいつの正式名称はウィルには関心がないことだ。ただ、
その感触を皮膚で、しかも、瞼では味わいたくなかった。
おかげで目は覚めたが、な。
 ようやく、ウィルは五感に感じる全てを事実として受け入れる気になった。
もう、悪あがきの仕様がないと諦めざるを得ない。次いでウィルは自分の現状
はかなり間抜けなものだと、自覚しなくてはならなかった。
本当にラボにボサッと突っ立っていたんだ、オレ。
被害者の状態をつぶさに観察するための個室にウィルはいつ、着いたものか、
全く記憶になかった。それでも自分で着たはずの、専用の白衣を着込み、突っ
立っていたのだ。
夢遊病だと言われても、仕方ないか。
御丁寧にキャップとマスクを付け、使うはずもない手袋をはめた一人前の恰好
の自分。恰好だけは積極的に立ち会いたいという意志を伺わせるものだった。
でも、待てよ。オレが解剖を見たいなんて、思うはずがないじゃないか?
ウィルは釈然としないまま、今度はイツカへと視線を送った。白衣のイツカは
俯き、何やら切り取る作業に勤しんでいる。それはいかにも現実の光景らしく
見えた。何しろ、彼は監察医だ。
間違いないよな。破綻のない、現実的な光景だよな。監察医がラボで仕事して
いるってだけだもんな。
 そして、その向かい側に立つ自分はいかにも監察に立ち会うような、そんな
装備に身を固めている。
それでも。何でオレはこんな所にいるんだ? 来た覚えがないのに。
家を出た覚えもないのに何で、オレはこんな所にいるんだ?
「それ、正気で言ってるの?」
イツカは顔も上げなかった。手は忙しく、目を離して出来る仕事でもない。
「人のせいにしないでね。君が是非にって言うから、そこにいるんだ。覚えて
いないの?」
ウィルは瞬いた。イツカの唐突な指摘に即応出来なかった。二度、三度と瞬く
内にどうにかウィルにも、イツカがウィルの疑問に答えたのだと理解出来た。
だけど。オレは何にも、口に出しては聞いていないぞ。
そうだ。
この顔立ちと声質だけが可愛らしい男には不可解な特技があった。
「オレは未だ、何も言っていないが」
「そう?」
「何でおまえは」
イツカはウィルの好きに喋らせない。
「その手のことには答えないって、前にも言った。二度も、三度も同じこと、
言わなきゃならないなんて。君、本当に呆けたんじゃない?」
「呆けちゃいない。そんな歳じゃない」
「自覚がないのなら、重症かも知れないね。だって、君が今、ここにいるのは
君の意志だよ。君は自分も見る必要があると言い張った。だから、入室を許可
したんだ。それなのに、それを忘れるだなんて、相当な呆け具合じゃないか」
「オレが? オレが、そんなことを言っただと?」
「一時間程度しか経っていないよ。大丈夫なの、君の頭」
「署に来たって、記憶もないんだけど」
「やっぱり、意識障害なんじゃない? 死因にならない病気には暗くて、診断
は遠慮するけど」
「違う。断じて違う」
「何を根拠に言っているんだか」

 

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