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 ウィルの前には死体が一つ、横たえられている。それは確かに昨日は生きて
いた。しかし、今となってはそんな事実にも、大した意味はない。
あまりにも遠離った過去と同じだ。何のリアリティーも、ありがたみもない。
現在の彼はつい最近、犯罪が為された事実を示す物的証拠としてのみ、ここに
ある。
死体が発見されて、それで初めて、事件は“発生”するわけだからな。
 物言わぬ彼は数時間から、半日以前に、少なくとも死体を損壊した上、遺棄
した犯罪者がいることを、その傷つけられた身体で立証している。
虚しい話だ。
作業台の上に乗せられた彼には頭部がない。本来、頭部が乗せられるはずの、
空いたスペースにウィルは目をやった。そこにはどんな顔があるはずだったの
か? 
どんな口をして、どんな声で喋っていたんだろうな。
ウィルは考えても仕方のないことを束の間、考え、それが意味のない行為だと
気付いて、マスクの下で小さく照れ笑いを噛み殺した。
もし、口があったって、何一つ、教えちゃくれないか。
彼が人生の最期に何を考えたのかは永久にわからないし、死者である彼に加害
者の名を告げることなど、出来ようはずもない。
口がある、ないの問題じゃない。もしも、今、こいつと話が出来るとしたら、
それは監察医のイツカだけだろう。
そのイツカは黙々と自分の作業を続けていた。
 被害者の身元は判明していない。頭部と両手がない死体なのだから、本来、
身元の確認にはかなりの時間を要したかも知れない。だが、今回はそう難しい
作業にはならないと、ウィルは考えていた。冷えた空気を吸い続けている間に
ウィルの頭も、どうにか正気を取り戻しかけているらしい。少しずつ、自分の
記憶が戻って来る、その感触があった。
驚いて、ちょっとばかり、失念していたらしいな、オレは。
 夜更けとも、早朝ともつかぬ時間帯、確かにウィルの安アパートで、電話は
鳴った。そのけたたましさにウィルは嫌な予感がしたのだ。
そう。これでアリスとは一緒にクリスマスを過ごせないって、感じ取ったよう
な、そんな気がする。
キッチンからは湯を沸かす気配だけがしていた。シャロームが芋を茹で始める
よりももっと前、つまり、相当な早朝にウィルは叩き起こされ、署に急行して
来たのだ。暗い、真冬の駐車場にはフォレスの車があり、彼はチラとウィルの
方を見たが、それっきりだった。ウィルも彼には関心を払うことなく、署内へ
と駆け込んだ。イツカが言った通り、その時、既に署内は緊迫していた。運び
込まれた死体の惨状から皆が察し、予想することがあった。それは最悪の展開
を意味していたのだ。頭部と両手のない死体がラボへ運び込まれる時、ウィル
も死体に付き添う形で地下へと降りて来た。緊急に追加された検案にイツカの
機嫌はあまり良さそうに見えなかった。先の仕事で作業着は汚れ、イツカ自身
も疲れきった表情をしていた。断るのではないかと危惧したウィルが開口一番
に叫んだのだ。
『断るなよ、おまえじゃなきゃ、困るんだ』
イツカは無表情のまま、ウィルを見据え、それから新しい遺体袋を一瞥して、
着替えて来ると言ってくれた。
だから、オレはここから逃げ出すわけにはいかなかったんだ。押し付けといて
自分だけ、逃げるわけには行かないよな。
 死体は一揃いの衣服を身に着けていた。戻って来たイツカは死者の仕立ての
良いパンツから出た、血の通わなくなった足を手に取った。彼は死者の爪先を
気にした様子だった。
『どうした?』
『身元の判明は早いんじゃないのかな。この人、爪の手入れに通っていたよう
だから』

 

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