生前の彼は裕福で、おしゃれだった。高価な服を着、ネイルケアにも余念が なかった青年。彼は幸せだっただろう。そして、今となってはそんな先日まで の生活は夢のようにあやふやで事実か、妄想か、判別すらし難いものになって いた。 こんなに酷いモノに変えられて。これじゃ、人じゃない。何の役にも立たない んじゃ、物ですらない。 ウィルには到底、直視出来ない変わり果てた姿。いずれ、対面する遺族を思う と、ウィルの気は重かった。見知らぬ他人であり、刑事でもあるウィルすら、 悲惨だと思う有様なのだ。これでは別れのキスも、抱擁も叶わないのではない か。もし、命を失っただけの、通常の死体なら、小心者のウィルも生前の人と しての尊厳を敬い、例え、多少、腐乱していたとしても、目を背けるような、 そんな恥ずかしいことはしなかったつもりだ。 言い逃れじゃない。オレだって、普通は死者をこけにするような真似はしない さ。目を反らすとか、吐き気を催すとか、そんなことは絶対、しない。だって そんな扱いは人に対してすることじゃない。失敬じゃないか。 例え、現実は物言わぬ物体と変わり果てていようとも、遺族が埋葬し終える、 その時までは人として数え、扱ってやりたいと思う。だが、その覚悟を持って しても、目前にある死体はつぶさに観察してみる気にはなれない状態だった。 殺すだけでも犯罪なのに、よくもこんなこと、出来るよな。 呆れて、開いた口が塞がらない。無惨な死体。胸に覚えるのは憤りだが、頭 にはそれ以外の感情もあった。死体には昨今、世間を賑わすあの事件の被害者 達と、幾つかの共通点があった。彼は有色の肌をし、生前、若く健康だった。 そして、死者となった現在、彼の頭部と両手首は紛失している。未だ、犯人が 切断のために何を使用したものか、具体的には判明していなかったが、もし、 この殺人、及び、死体損壊、死体遺棄事件が一連の事件と同じ輩の仕業である なら。恐らくは古式ゆかしくも、ノコギリを使ったと、今日中には断定される ことになるだろう。 根気のいい連中だよな。ギッコ、ギッコ、相当、苦心して挽いたんだろうよ。 そうやって切断されただろう三ヶ所の切断面にはごく細かい白い粉がびっしり とまぶし付けられていて、その下に透けて見える血肉の赤さを一層、気味悪く 演出しているようだった。被害者の人種や年齢、そして、死体に為された行為 は際立った特徴だろう。その結果、この死体も、同じ犯人に殺された被害者だ と想像するのは容易いことだった。 とうとう、この街にも来たのか。 ウィルは苦いため息を洩らした。もし、皆の想像通りだとしたら、今、上、 つまり、署内は大騒ぎとなっているはずだ。 なぜならば。あの“一色きりの世界”がここへやって来たんだ。サーカス団が 回って来たっていうのとはわけが違う。 だが。ウィルは自分の思いつきを自ら、否定する。その登場の仕方は似ている のかも知れない。そう、思い直した。この町に来るらしいという風評の後、彼 らは賑々しく登場し、やるだけやって、忽然と消えてしまう。 あながち似ていないとは言えない、な。 昔、サーカス小屋を訪ねたことがある。おぼろげな記憶の中で派手なテントは 赤土を含んだ強風に棚引いていた。 次の日もウキウキ行ってみたら、跡形もなく消えていたっけ。次の町へ稼ぎに 去って行ったんだ。オレには何の断りもなく。 そんな子供の頃の、消え去りそうな記憶など、どうでも良いことだと知って いる。己が今、しなければならないことはその死体をもっと良く眺め、新たな 事実を一つでも、二つでも見つけ出すことだ。それは重々、理解して、頭では わかっているつもりだ。だが、ウィルにはどうしてもそれが出来ず、うろうろ と視線を彷徨わせ続ける。愛想のない壁に、床に、監察医の手勝手に合わせて 効率良く並べられた器具に、次々と視線を這わせ、ウィルは吸い寄せられそう になる自分の意識をそこから離そうと苦心していた。 逃げ出すわけにはいかない。オレがイツカを引き込んだ以上は。 「顔色が優れないようだけど、大丈夫?」 イツカの声が事実以上に冷然と聞こえるのはたぶん、自分の弱気のせいだ。 ウィルはそう考えた。イツカは長時間の力仕事に疲れた様子だが、死体その物 に特段の感傷を抱いてはいないらしい。 「大丈夫だ。迷惑はかけない。気が散るだろうが、勘弁してくれ」 「腰掛けたら? 長時間、同じ所に立っているのは結構、きついよ」 「おまえが立って仕事しているのに、そうはいかない」 イツカはごく小さく笑った。 「何だ、やっと思い出したんだ」 「まぁ、な。それより、まだ、かかりそうか?」 「もう、少し」 「意外と手間取るんだな」 「仕方ないでしょ? 針金が外し難くくて」 「針金?」 イツカは一旦は下ろしかけた視線をすっと、また上げて、ウィルを見つめた。 その目には驚きとも、呆れともつかないものが浮かんでいた。 「君って、本当に何も見ていなかったんだ。そんな、真ん前、特等席に立って いて」 「見たくないんだから、仕方ないじゃないか?」 「どうってこと、ないでしょ? 腐乱死体はきついだろうけど、これくらいは 」 「オレだって、わかっている。そんなことは百も承知だ」 八つ当たりだとは思うが、ウィルは声を荒げた。怒鳴らずにはいられなかった のだ。 「頭がないとか、手がないとか、それくらい、オレだって、我慢するさ。目を 反らすとか、悲鳴を上げるとか、そういうことは死者に対して失礼だ。絶対、 しない。だけど、これは明らかにレベルが違う。どうやって我慢しろって言う んだ?」 「君だって、一皮、剥げば、こんなもんだよ」 イツカはそう言って、再び視線を下ろした。彼は自分の作業へ戻り、手に余る 何かを引き出そうとまた、力を込めたようだった。 こいつ、さっきから何、引き出そうとしているんだ? 針金って、言ったよな ? 針金って、何だ? どんな生物の中にも、針金は存在しない。 フォレスやティムの中なら、わからないが。 ウィルはイツカの言動が不可解だと思う。だが、確認のためにその手元を覗く ことが出来ず、落ち着かないまま、辺りを見回し続けた。 「出ていればいいのに。ちゃんと後で報告するよ、今まで通り」 イツカは両手を死体の腹に入れたまま、ぼそりと呟いた。 「今のところ、“他”は見つかっていないんだろうね」 「他? ああ、頭と手のことか」 イツカは頷かなかった。 「捜し物はそれだけじゃない」 「どういう意味だ?」 レンズ越しに見える、イツカの目に動揺は見られない。彼は淡々とした口調を 保ったまま、言った。 「針金で留めてあるんだよ。他人の臓器を、この中に」 ウィルは瞬いた。イツカが嘘吐きでないことは知っている。しかし、俄には 信じられなかった。 「へっ?」 「この中に入っていたのはこの人の臓器じゃなかった。心臓、肝臓、膵臓、脾 臓、取り敢えず、外せる物は全て切り取って、代わりに他人の臓器を詰めて、 捨てたらしい。御丁寧に針金で留めてあるから、外すのに手間取った」 「間違いない話か?」 「普通、子宮はセットされていないでしょ? 彼、男性だよ」 ウィルは続けざまに二、三回、瞬いた。今、自分が空恐ろしいと思うべきは 一体、何なのだろう。悪しき犯人への恐れか、それとも平穏無事な顔をして、 報告してくれる監察医への畏怖なのか、ウィルには判断がつかず、茫然と立ち 尽くすしかなかった。 |