イツカの業務はあらかた終了したらしい。そう感じ取った時、ウィルは正直 言って嬉しかった。この部屋から逃げ出すことには抵抗がある。しかし、もう 限界ではないかと不安を募らせていた矢先だったのだ。 ここから出られるんだ。 思わず、安堵の息を吐き、ウィルはイツカを見やる。無論、イツカのグラスに うっすらと赤く影を映した、その物体の方へはとても視線は送れないが、それ でもどうにか、イツカの行動を観察する余裕が生じていた。ウィルにとって、 イツカの行動は興味深いものでもあったからだ。 実際に見るのは初めてだし。 一通りの作業を終え、“用済み”となった死体をイツカは作業台の上に置いた まま、簡単な後処理に取り掛かった。死体に付いた血の汚れを拭い、イツカは 予め、部屋の隅に準備していたらしい脚付きのトレイを、作業台の隣まで移動 させた。どうやら、イツカは死体を専用の保存設備に移すようだ。その様子を 見守りながら、ウィルは首を傾げた。 まさか、一人であれに乗せ替える気じゃないよな? ウィルはさすがにそれは無理だろうと考える。イツカの腕力で、頭部が欠けて いるとは言え、大柄な青年の死体をどうやって動かすつもりでいるのか、見当 もつかなかった。 無理だよ。体重が違いすぎる。 ウィルはお鉢が回って来るのではないかと、内心、危惧したのだが、実際には 手伝うまでもなかった。 「よっと」 そう軽く声を上げただけで、イツカは手慣れた調子で死体をトレイに移した。 補助する器具があるとは言え、要領の良さが為せることだろう。 お見事だ。 そんな自分の手際に感嘆し、観察を続けているウィルの存在など、イツカの頭 の中にはないのかも知れない。イツカは淡々としていた。表情もなく、黙々と 慣れた作業をこなす様にはウィルも、敬服せざるを得ない。死体をトレイへと 移し、イツカは手袋を外して、ゴミ箱へと押し込む。それからマスクを外し、 次いでトレイを“冷蔵庫”の仕込まれた棚の方へと滑らせる。きっちりと一つ ずつ、ラベルを貼られ、分類され、管理されている一角。その扉を開け、死体 の乗ったトレイを滑り込ませて、イツカは扉を閉めた。自宅には鍵を掛けない イツカだが、その扉に付いた鍵はしっかりと掛け、ドア脇の目盛りを動かし、 目的の数値に合わせる。死体の保存に最適な温度として、監察医には確定的な 数値があるらしい。イツカがポンと最後のボタンを押すと、耳慣れない低い音 が流れ始めたが、イツカにそれを気にする様子はなかった。 「それで終了なのか?」 「半分は終わったよ。あとは検案書の作成」 そう答え、イツカはようやく張り詰めていた自らの緊張を解く。ウィルの目に も、イツカの細い両肩から重い緊張が抜けて行く様が見えるようだった。 そりゃあ、疲れるよな、こんな仕事。 彼の仕事に求められるものは多い。知識と技術だけではない。長時間に渡り、 被害者の惨状とまともに向き合う心労も、押し付けられるのだ。今までウィル が想像していたより、はるかに肉体的にもきつい仕事だった。細身で、十分な スポーツを楽しんだことがあるはずもないイツカには傍で窺うより、更に過酷 な重労働となっているだろう。 陽に当たれない、土牢で暮らしているようなイツカに体力造りした経験がある はず、ないもんな。 二体の検案を立て続けにこなし、イツカはさすがに疲れ果てた様子だった。 彼はごく小さく息を吐く。彼が勤務中に使った体力と、神経の消耗を思うと、 当然の疲労だろう。その背中には痛ましささえ、見え隠れしているようだ。 「大丈夫か?」 ウィルは思わず、声を掛けた。掛けずにはいられなかった。 「大丈夫だよ。御機嫌だとは言えないけどね」 張りのない声でそう答え、イツカはキャップ、グラスと、順々に小道具を剥ぎ 取り、ようやく普段の彼が露わになった。疲れで面やつれして見えるが、それ でも特殊な装備を解けば、どうにかいつもの姿に戻って来た。 「残りは専門家に回すよ。ここじゃ、ある程度までしか、調べられないし」 イツカは“冷蔵庫”の方をチラと見やる。ウィルも、その動きにつられて振り 返った。中には何体かの死体が納められている。その内の一つ、冷気に包まれ 始めた新入りの死体は陰惨な事件の物証だ。他人の臓器を詰め込まれ、路上に 捨てられていた身体。それは人を殺した上、そこから切り取った臓器を他人の 死体内部に押し込み、御丁寧にも針金で仮留めして捨てた、信じ難い犯罪者が 今、どこかで生きていることを示している。思い返しただけで再び、ウィルの 記憶が飛んでしまいそうになるほど気味悪く、空恐ろしい現実だった。 早く捕まえなくては。一刻も早く。 手掛かりは毎回、遺棄される死体のみ。つまり、現状はそこから出来る限りの 情報を得るしか、なかった。 「被害者は、あと何人いる可能性があるんだ?」 「七人、かな」 ウィルはやるせなく息を吐く。 「腹を裂いて、ピンで留めているだけだと思ってた。前回までと同じように」 「十字に裂いて、ね」 念を入れるかのようにイツカは事実を付け加えた。その一言がウィルにもっと 明確に、重く、現実を突きつけて来る。 そうだ。 死体には頭と両手がなく、腹は十字に切り裂かれ、その裂け目をピンで留めて ある。それが共通点だった。そして、まぶされた白い粉。 それでも十分、凶悪な犯行だったのに。何でエスカレートしちまったんだ? もし、もっと早く、検挙することが出来ていたら。 |