呆れるほどの集中力でイツカは下準備に没頭している。とうに自分の背後に いるウィルの存在など、忘却の彼方へ吹っ飛ばしているのだろう。 退室のタイミングを失ったな、オレ。 ウィルは自分に与えられた椅子に座り直し、退室するためのドアを見た。方向 違いにあるラボのドアなど、見る気もしない。その内には死体を満載した大型 冷蔵庫がある。出来ることなら今すぐ忘れたいが、それも不可能だ。とりわけ 新入りとはこれから先、長い付き合いになるはずだ。頭部と両手を失い、自前 の内臓の大半を奪われた男。ウィルは逃避願望に駆られながら、二つのドアを 見比べる。同じ色をした二つ。だが、それぞれのドアが誘うのはまるで別世界 だ。 オレが好きなのはあっち側。ギャアギャア、ブーブー賑やかな生者の世界だ。 そこへ戻るのは簡単だ。あちらのドアを開け、応接室代わりの空間を通り抜け て突き当たったドアを開けさえすれば、いい。そうすれば、望み通り、喧騒の 外界へと続く階段が待っていて、道中を邪魔する者など、いもしない。 なのに、オレはここから出たくもないと来た。 ウィルにはイツカの作業を見守る理由はなく、外には仕事が待っている。ここ でぐずぐずと時間を潰すより、早く戻った方がいい。それを知っていながら、 ウィルはこの場を離れたくなかった。ふと我に返ると、外界は今、クリスマス が終わろうとする時分になっていたからだ。 ウィルは仕事を開始したイツカに遠慮して、小さく息を吐いた。人々が笑い さざめくクリスマスも、新年にもウィルは居合わせたくなかった。出来るなら いっそ、ほとぼりが冷めるまでここに隠れていたいくらいだ。 オレは仕事中だから行けない。それだけの話なんだ。 実際、新年会などと騒ぐ暇はない。離れた町に住む妻子を訪ねる余裕もない。 何しろ、敵は“一色きりの世界”だ。アリスに会いに行く、そんな時間がある わけがない。 言い訳だと、自分でもわかっている。だが、仕事のせいにしてでも、もう少し だけのことに過ぎなくとも、何かを先送りにしたかった。 度胸がないのかな、オレ。 せっかくイツカが指示し、マークが購入しておいてくれた、ウィルが見立てて いた贈り物も直接、届けることは出来なかった。ウィルさえ、ぐずぐずせずに 帰宅後、車に飛び乗り、彼女の元へ駆け出していたら、少なくともクリスマス プレゼントを妻子に手渡し、二人の笑顔に満足出来たはずだ。どの道、緊急の 呼び出しを受けることになったし、署に戻らなくてはならなかっただろうが、 それでも一時、家族として過ごすことは出来たのだ。 なのに、オレはしなかった。シャロームと世間話なんかして、わざわざ時間を 潰してしまった。 ウィルは美しい妻を想う度、必ず、二つの感情を同時に味わった。甘い安らぎ とやるせない、埋め難い淋しさとを噛み締めた。 オレはアリスに愛されている。それなのにどうして、こんなに不安なんだ? “オレでいいのか?”って、思うんだ? ウィルは自分の手を見た。左の薬指に銀の指輪が鈍く、しかし、決然と瞬いて いる。アリスが嵌めてくれた指輪。これはマークがツリーの足下に飾っている 指輪とは違う。ウィルの結婚指輪は現役だった。生きて、愛し合う二人の言葉 を代弁し続ける指輪であって、マークの療養中の、意識を失ったままの恋人の 指輪とは違うのだ。 アリスは生きているし、オレも生きていて、オレの思いは変わらない。彼女の 思いも変わらない。ただ、時期が来るのを待っているだけなんだ。 ウィルは毎日、日に何度も妻を思い出すが、イツカがそれほど亡くした兄弟を 思うことはないだろう。 そりゃあ、そうだ。アリスは生きているけど、イツカの片割れは死んでいる。 明日があるのとないのとでは大違いだ。 兄弟か。 ウィルは自分の感想は所詮、御託に過ぎないと気付き、苦い息を吐く。 他人のことは言えない。オレ達兄弟だって、疎遠だもんな。 ウィル自身、自分の兄弟に、彼らが生きているにも関わらず、会っていないの だ。 結婚するまでは待ち合わせて食事したり、電話掛け合ったりすることもあった けど。 結婚後、ウィルは兄弟と疎遠になった。 でも、偶々、時期が一致するだけで、アリスに原因があることじゃない。 彼女に非があり、ウィルの肉親が近寄らなくなったわけでも、ウィルが彼らを 避けたわけでもない。単純なタイミングの問題だ。そう自分に言い聞かせて、 ウィルは瞬く。自分は嘘は得意ではない。それが身にしみた。兄弟達は美しい アリスに親しみを抱けなかった。 あんまり美人だから、怖じ気づいたんだ。 胸に過ぎるのは一抹の淋しさだ。 誰が悪いんじゃない。オレが至らなかった。何でアリスのためにもっと、間に 立って、隙間と言うか、溝を埋めてやれなかったんだろう? ・ 美しいアリス。彼女はマークに似ている。ウィルは快活なマークを嫌いでは なかった。全てを持ち合わせた彼を羨ましく思うこともあったし、恵まれたが 故だろう無邪気さが気に障ることもあった。それでも、ウィルはマークを嫌う ことはなかったし、ましてや、恐ろしいと感じることなどなかった。 オレが市井の人間を怖いと感じたのは一回きり。一緒にいられないと思ったの は、彼女だけなんだ、、、。 |