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 しかし、ウィルはアリスを愛していた。当時、彼女に対して抱いていた愛情
を客観的に判断するなら、信奉に近かったかも知れない。だからこそ、当初、
ウィルには見る間に疎遠になって行った家族の反応が理解出来なかった。
そう。あの日までは。
ウィルは小さく息を吐く。その日、ウィルは家族が足を遠のけることになった
遠因を何とはなく、だが、見て取った。
アリスはたおやかで、思いやりがあって、人を分け隔てしない、完璧な女だ。
なのに、オレは恐れるようになった。きっと皆はオレより早く、初対面のあの
席で一瞬の内に見て取ったんだ。オレが見た雨の夜の“アリス”を。
一度きりの恐怖を二度と味わうことはなかった。それでも自分が感じたものは
微かではあっても、明確な恐れであり、思い過ごしと否めなかった。拭い去る
ことが出来なかったのだ。
 それは発熱し、伏せていた一人息子の容体を確認したいと思い付き、深夜の
警邏中だったウィルが自宅に立ち寄ったことから始まった。雨粒が激しく地上
に叩きつける夜だった。強い雨音にかき消され、ウィルの愛車のエンジン音は
アリスには聞こえなかった。足早に階段を駆け上がった靴の音も、室内にいる
だろうアリスへ掛けた声も、彼女には届かなかった。
今、思えば、激しい雨音のせいだけじゃなかったのかも、な。
 ウィルがリビングルームへ続くドアを開け、更に数秒が経過して、アリスは
ようやく振り向いた。その時、彼女の唇はまだ、電話の相手に向かって動いて
いた。どうやら振り向いたのも、ウィルに気付いたからではなく、単に姿勢を
変えたかっただけだったらしい。振り向いても尚、彼女はウィルには気付いて
いなかった。
“冗談じゃないわ。わたしには関係のないことでしょ。無関係よ。あんな女、
どこにいても、どこにもいなくても、わたしには関係がない。一体、わたしに
何の関係があると言うの? 言い掛かりじゃないの?”
受話器を握ったまま、アリスは瞬いた。美しい唇はその瞬間、ピタリと動きを
止めた。まるで“眠りの森の姫”の一場面のようだった。
あの時、アリスは何を考えていたんだろう?
アリスは初めて、ウィルがそこにいる事実に気付いた。日頃、彼女は常に冷静
沈着だった。だが、その時だけは違った。よほど、泡を食ったのだろう。その
短い時間だけは、アリスは自分の動揺を隠しきれなかった。パクパクと、赤い
唇は音に出来ないまま、それでも声を出そうと試み、数秒が経って、どうにか
こわばった笑みを作ると、彼女は強く握っていた受話器を元の位置に戻した。
『いいのか? 邪魔をしてしまったな』
『いいのよ。間違い電話なの。あんまりしつこいから、カッとなっちゃって』
アリスは見慣れた笑みを浮かべ、ウィルに抱きついて来た。
『恥ずかしいわ。眠っていないから、少しばかり、いらいらしていたのね』
『そうだよ。昼も夜も、君一人で付き添っていたからな。少し、横になった方
がいい。オレはもう少しならここにいられる。仮眠程度でも、今の内に取って
おいてくれ』
『ありがとう。心配して寄ってくれたのね。心強いわ。あなたの顔を見たら、
安心して正直、気が抜けそうになったくらいよ。そうだ。あのね、ショーン、
熱はかなり下がって来たの』
 彼女に肘を取って寄り添われ、一人息子のベッドに向かう間にウィルは電話
のことなど、どうでもよくなっていた。その時は綺麗さっぱり、忘れたつもり
でいた。しかし、あの恐ろしく緊張し、張り詰めた目だけは上手く忘れること
が出来なかった。折に触れ、何かの拍子にうっかりと思い出す、あの凄味。
あれは普通の生活をしている女が持っているはずのない、凄味だった。
料理して、洗濯機回して、掃除機持って家中、ウロウロしている並みの奥さん
とは違っていた。
ウィルの頭には似たような目をした女の顔が幾つも、同時に浮かんだが、それ
とアリスの目が類似していたとは到底、認められなかった。
だって、アリスが殺人鬼共と同じ目をしているはずがない。大体、オレは何も
わかっていない。好き勝手なことを言う資格はないんだ。
そもそもあの電話が外からかかって来たものなのか、それともアリスが自ら、
かけたものなのか、それすら、わからない。電話の相手もわからない。雷鳴が
轟く夜。アリスはウィルの留守を守りながらも、息子の枕元から一旦、離れ、
誰かと電話で話していた。
そりゃあ、電話くらいする。話し相手がいない人なんて、シャロームくらいの
ものだ。
ただ、彼女は酷く緊張し、興奮して、彼女らしくもなく怒り狂っていた。その
様子はただならぬ理由を抱えていたことを示している。
あの時、アリスはトラブルを抱えていたはずだ。それなのに何で、間違い電話
だなんて、嘘を吐いた? オレに心配をかけまいとしたのか? それだけなの
か?
「何で、しょぼくれているの?」
 イツカの声にウィルは顔を上げ、そして、自分が頭を抱え込んでいることに
初めて、気が付いた。
「こんな所で黄昏ないでよね、迷惑だから」

 

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