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 イツカは先刻から一人、熱心に検案書を作成中だった。当然、画面を見、頭
と両手を忙しなく働かせながら、器用にも自分の背後で回想に耽っていた男に
気付き、たしなめたらしい。
離れ業だ。背中にも目があるのか。
ウィルは呆気に取られて、言い訳がましくイツカの背中を見つめてみた。確認
するまでもないことだが、イツカの背中に余分な目は付いていない。それでも
そこに見えるものはあった。服越しにだが、内に秘めたイツカの性質は十分に
伺える。無駄な脂肪も、歪みもない背筋はイツカの人となりとその生活ぶりを
表していると言ってもいい。そこには崇高な気配すら、漂っていた。
だらしがないとか、やりっぱなしだとか、その手の批判は受けたことがないん
だろうな。むろん、あんな几帳面な子守り男が四六時中、一緒じゃ、ゴロゴロ
寝そべって過ごすなんて、出来っこないわけだけど。
 ウィルはイツカの物言いには腹が立たなかった。彼には悪意はないと知って
いる。
ちょっと口調がきつい時があるだけだ。
だが、ウィルは完全に聞き流す気にもなれなかった。腹立ちから出た感情では
ないが、今、自分が抱え込んだこの重い感傷を切り捨てるには溌剌とした刺激
が必要だ。そう考え、切り返す。記憶にこびり付いたアリスのあの暗い、殺気
すら帯びた目を忘れるには相当のきっかけが必要なのだ。
「オレはおまえに迷惑かけた覚えはない。当然、邪魔呼ばわりされる筋合いも
ない」
「そうなんだ?」
イツカもウィルの真意がわかっているのか、凄まれているわりにはごく気易い
調子だった。大体、彼は振り返りもしない。
「じゃあ、よっぽど深く感傷に浸っていたんだな。だって、そこら辺中、陰気
な空気が漂っているじゃない? それは君の責任。君の過失だよ」
イツカの言葉そのものは顔にも、声にも似合わない、ややきついものだった。
もし、それを字面で見たなら、辛辣と感じたのかも知れない。だが、イツカの
声で言われれば、苦痛は感じなかった。彼の心の底に悪意はないとわかるし、
それが自分の勘違いだとも思えなかったからだ。
根は優しいんだ、こいつ。結構、果敢だし、な。
 彼と一ヶ月半もの間、地下室に同居することになった経緯をウィルは覚えて
いる。それはイツカが猛然とフォレスに抗議したことから始まった。ほとんど
初対面であり、親しかったわけでもないウィルを庇い、怪力の子守りに食って
かかって、そのために負傷したイツカ。それは奇特な行為だと思えた。
オレには真似が出来ない。フォレスの怪力と性格をわかっていて、それでも、
庇ってくれた。まともな正義感だとか、責任感とか、一揃い、持っているよ、
こいつは。
ウィルはこっそりと、唇の両端に苦笑いを浮かべた。
でも、やっぱり、無鉄砲だよな。とんだ命知らずだ。
「早く帰ればいいのに」
イツカは今度は弱い声で呟いた。彼はよほど、ウィルを帰宅させたいようだ。
オレが、邪魔なのか?
ウィルは首を傾げてみた。イツカがウィルを追い出したいのだとしたら、理由
は大概、一つだ。
オレがこいつの仕事の邪魔をしているってことだろう、普通。
ウィルは自分がイツカの集中力を殺ぎ、作業を妨げているのか、否か、判断が
つかず、ますます首を捻る。イツカ自身の見解は聞いていない。だが、ウィル
には自分の存在が特段、イツカの作業を妨害しているとは思えなかった。彼の
作業は順調だ。ここで使うために用意しただろう録音テープすら、ろくに再生
しないまま、イツカは自分の作業を淡々と続けて来たし、指先はキーボードの
上で滑らかに踊り続けている。
どう見ても、快調じゃないか? これ以上の速さで出来るわけがない。どんな
仕事にだって、上限ってものがある。最短記録は易々とは塗り替えられない。
つまり、これがイツカの当たり前のペースなんじゃないか? だったら、オレ
が邪魔をしているわけじゃないじゃないか?
 ウィルはキーを打ち続けるイツカの指を眺めてみた。仕事はあくまでも順調
なのだし、体調もさほど悪そうではない。
だったら、悪いのは御機嫌か? 一体、何が不服なんだ? オレはとりあえず
喋っちゃいなかった。じっと座っているだけだし、別にセクハラに当たるほど
はじろじろ、人の身体を見ちゃいないぞ。
 ウィルは自分の疑問を解消すべく、大真面目に考える。身動きもしていない
無言の男の何が、イツカの邪魔になるのか?
あるとすれば、視線だろうが、それも違う。先程までは見てもいなかった。
だったら、オレは一切、イツカの邪魔をしていない。つまり、無実じゃないか
そう行き当たり、更にウィルは考える。イツカとは短い付き合いだが、それで
も彼の言動にはパターンがあると知っている。当然、ウィルにも、その傾向を
読むことは出来るはずだ。
そう言えば、こいつ、お利口さんだけど、情緒は不安定だな。薬を飲み過ぎる
から、仕方ないが、多少、不安定な時があるんだった。
立て続けに作業を依頼され、やむを得ないとは言え、結果的にかなり長時間、
薬を飲んでいないイツカは次第にフォレスが恐れる、そんな事態に陥り始めて
いるのではないか?
「おまえ、具合が悪くなっているんじゃないか? 何だったら、オレが代わり
に薬を取りに行くよ。フォレスに電話をかけた方が早いことは早いけど」
「平気。ちょっとぼんやりする程度だって、さっき、言ったよ」
イツカはウィルの申し出をすげなく断り、吐き捨てるように付け加えた。
「リプレイ中だから、気分は悪いけどね」

 

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