back

menu

next

 

 もしかしたら、とウィルは考える。もしかしたら、自分よりもイツカの方が
ずっと家族思いで淡く、暖かな絆を夢見るような、可愛らしい質なのではない
か? もし、そうなら。それはある意味、意外なことだとウィルは考える。
だって、こいつはそんな性質が育まれるような土壌とは無縁だったはずだ。
 イツカはほとんどのものに恵まれている。人間が欲しいと願う、様々な物。
それは多種多様であり、千差万別でもあるだろう。だが、それでもリストの上
位に並ぶ希望の品目は想像に易い。そして、その大半をイツカは持っていた。
整った容姿と、自分で稼ぐ優れた能力。もし、監察医としてこのまま進めば、
将来はその権威となれるはずだし、彼の実家は資産家だ。労せずしてイツカは
十分、生きて行けることだろう。その一方でイツカは大抵の人間が意識もせず
に毎日、甘受している幸せからは見放されている。
誰でも、いつでも楽しめることが、こいつには出来ないんだ。
彼は太陽の下、好き勝手なことを喋りながら友人と出歩く、そんな安上がりな
楽しみとは無縁だし、家族といつもの夕食を囲む、繰り返されることによって
のみ、価値が生じる、そんな類の幸せとも縁がない。
そっちの方が肝腎なのに。家具なんて、粗末な物でいい。磨いていれば、それ
でいい。皆が集うからこそ、ダイニングテーブルには価値があるんだから。
そう考えると、ウィルにはイツカが不憫だった。歓声を上げ、庭先を転げ回る
ショーンの笑顔を思い浮かべ、ウィルは切なくさえなるのだ。
あんな思い出がないなんて。
 陽に当たることが出来ないイツカは地下で暮らし、傍らにいるのはいつも、
機械のフォレスだけだった。そして、その状態はずっと変わることがなかった
らしい。
それも、そうだろうな。
ウィルはその事実には納得することが出来る。
あんな暮らし、人間には出来ない。
四方を大量の土に囲まれた地下室の、あの圧倒的な閉塞感に苦痛を感じない者
はいないし、その苦しみに耐えてまで他人に付き合ってくれるような、崇高な
魂の持ち主なんぞ、滅多にいるものではない。
イツカは良い奴だけれど、フルタイムであそこに住むのは普通の人間には拷問
でしかない。パートタイマーみたく夜だけ、一緒にくらいならこなせる人間も
偶にはいるだろうけど、それも長くは続けられない稼業だろう。
大体、そんな生活を続けていれば、すぐに嫌気がさす。結果的に、人間同士の
関係が破綻するのは目に見えている。
あの地下室で暮らすこと。金銭的な報酬でどれほど、高額が約束されていたと
しても到底、人間には我慢出来ない苦行であり、愛情が折り合いを付けられる
ような苦痛でもない。
結局、どんな人間にも、人間である以上はこなせない生活なんだ。
つまり、人間にイツカの傍に寄り添い、一緒に暮らすことは不可能だ。だから
こそ、機械で出来たフォレスが常時、イツカの傍らにいるに他ならなかった。
機械でも、人の心は持っているらしいけど、な。
 フォレスはイツカと共に食卓に着いていたし、食べ物を口に運んでもいた。
それは健気な努力だと思えなくはない。しかし、彼の食事はイツカが味気ない
思いをしなくてもいいように、淋しくないようにと同じ席に着き、単に口から
内部へ食べ物を放り込む、それだけの作業だった。決して、皆が思う当たり前
の“食事”ではない。
あいつには味はわからない。だから、何の感想も言えない。たったの一言も、
言わなかった。それじゃ、食事とは言えないんじゃないか? あーだ、こーだ
って、皆でワイワイつまらないことを言う、それを含めて、初めて、“食事”
なんじゃないのか?
 一ヶ月半、地下生活を強いられていた間、ウィルは出来の良い食事に舌鼓を
打ちながら、その都度、感想を洩らした。それは誰でも口にする、ささやかな
喜びであったり、不服であったりとどこの食卓でも交わされる他愛のない感想
だったが、傍らのイツカはなぜだか、とても楽しそうだった。ウィルが感想を
洩らす度、イツカの鳶色の瞳はキラキラと一層、煌めくように感じたものだ。
その時々にはウィルはなぜ、イツカが嬉しそうな表情を見せるのか、実際、何
ら、推察出来ていなかった。
今になって、こうして振り返ってみると、そういう、普通の食卓っぽい会話が
面白かったんだろうなって、思うよな。フォレスだって、最善を尽くしていた
し、大した努力をしているんだろう。だけど、人同士、感想を言い合うような
わけにはいかないから。
 ウィルにとって、イツカは謎の“善人”だった。現前として、イツカは良い
人間だ。だが、ウィルにはその人格が生まれた理由がわからない。
だって、イツカには心を育むための土壌がなかったんだ。
それはイツカに非のあることではないし、子守りのフォレスが責められるよう
な筋合いのものでもない。
誰が悪いわけでもない。だが、結果的にイツカが生きて来た環境は良いものと
は言えなかった。

 

back

menu

next