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 ウィルはソファーに身を沈めたまま、考えた。先のイツカの言葉がぐるぐる
と頭の中を回っている。
『参考にしてね、“お父さん”』
一体、どういう意味だ? 何で、“お父さん”なんだ?
何らかの意味を持たすようにイツカはわざわざ、抑揚を付けて、そう言った。
明らかに彼の通常の口調とは異なった。
あいつ、どんな意味を含ませたんだ? “お父さん”って、一言に。
 イツカにとっては、ほんの気まぐれだったのかも知れない。だが、その場に
おいては、彼なりの意図を持って言ったはずだった。ウィルにはどうしても、
単なる言葉のあやとは思えなかったのだ。
聞き流せない。だって、あいつは相当なレベルのお利口さんだ。あんなレベル
のお利口さんって生き物は意味のないことをしたり、言ったりしない。
それはウィルが生きて来た中で知り合った“お利口さん達”皆に通じる概念で
あり、特にイツカに当てはまることでもある。
何しろ、あいつを育てたのは“割り切り”好きの機械だからな。
イツカは自身の望みではなかっただろうが、結果的に特殊な環境下で育った。
あれより、特殊な環境はない。過去から現在まで探しまくったって、イツカと
同じ育ち方をしたって人間はいないはずだ。未来でまではわからないが。
 ウィルはイツカの住む、小さな世界を思い出す。高級アパートの三層分とは
言え、そこに自分が代わって、住みたいなどと願い出る者はまず、いない。
いくら立派でも、窓一つない地下室じゃ、な。
ウィルは一人ごちる。 
あの下に冥界があるって、告白されたって、驚かないだろうよ。
実際に自分の目で見、一ヶ月半も暮らしたその世界は風変わりだった。そこに
住むのは陽に当たることが出来ない、美貌の王子様と生真面目な子守りの二人
きり。時折、空調と思われる、機械が立てているらしい低い音が響く以外には
何の音もしない世界だった。思い浮かべただけでウィルの頭の天辺から両踵の
間まで真っ直ぐに繋がっているはずの線がゆらゆら陽炎の如く、揺らぎ始める
のだ。
ぞっとする。
ごく静かな恐怖がウィルの平衡感覚を狂わせようとする。まるで見えない魔手
に絡め取られるような心地さえ、した。
想像すると気分が悪くなる。あそこにいた当時より、むしろ、今の方がずっと
怖い。振り返ると尚更、薄気味悪い。
 そこにいる間はずっと、命の危険を感じていた。生きて、外に出られるか、
否か。愛する妻に再会出来るか、否か。それしか考える余裕がなかったから、
幸いにも、地下にいる圧迫感や苦痛は鈍いものだったのだろう。
だが、開放されて一旦、外に出てしまった今、地下室を思い浮かべただけで、
それだけでこんなにもぞっとする。変な汗まで出て来る始末なんだ。
ウィルは自分の両手が微かに震えていることに気付いた。その震えごと、恐怖
心を握り締めて潰してしまいたい。そう願ったが、並大抵のことではなさそう
だった。
もう少し、時間がかかりそうだ。
 振り返ると、当時、ウィルを支えてくれたのはアリスの面影であり、息子の
存在であり、イツカの思いやりだった。そして、もう一つ、ウィルが感謝の念
を込めて思い出す、存在があった。実際に目にしていたその時より、ウィルは
ずっと強く、今、思い出すのだ。フォレスが買って来ていた小さな花々。その
眩しさが愛しく思い返されて、たまらなかった。
だって、その花だけが、外の匂いを感じさせてくれた。
そんなあまりにも淋しい世界で一人きり、イツカを守り続けるフォレスは傍目
には人にしか見えないが、実は“機械”だった。
仰天するけど、事実だから、不服は言えない。そんなことより、機械の身体に
人の感情があること、そっちの方がずっと不思議だ。
フォレスの身体が精巧に出来ていること、その事実には驚くものの、慣れるの
は存外、簡単だった。未来から来たと言う、彼らの説明を受け、ウィルは割合
あっさり、納得することは出来た。子供の頃から慣れ親しんだマンガや何かの
ような世界が遠い将来に待っていても、不思議ではないと思うからだ。
原始時代が待っているって言われた方がよほどショックで、生きる希望がなく
なっただろうからな。
 ウィルはフォレスの精巧な人間を模した身体はさほど、不可解と思わない。
現在ならともかく、未来で製作されたと思えば、割り切ることは難しいことで
はなかった。ただ、ウィルには彼が持つ感情や意志、それらを含めた“魂”の
存在が何より不思議だった。彼が何を思って、毎日のように花束を買い、水を
与えるのか、未だ想像に難い。大体、機械であるフォレスに誰が、どうやって
“魂”を与えたのか? 
イツカには聞けないな。あいつ、“制作者”の話は気に入らないらしいから。
 ウィルはふと、棚の一つに置かれた、小ぶりな額に目を止めた。単に絵だと
思っていたのだが、実際にはパズルだった。
そう言えば、たくさん持っていたな。
裏、表とそれぞれにつまり、二種類の絵柄が施されたジグソーパズルをイツカ
はかなりの量、持っていた。
お爺さんか、誰かが手作りしてくれたって、言っていたっけ。

 

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