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『嫌な予感がする』 イツカの口から忍び足で、まるで空気中に紛れ込むように、そろりと出て来た 言葉。それは彼の内なる不安が発したものだったのかも知れない。 実際に何らかの危険があるわけじゃない以上。 事実、イツカは今、危険にさらされているわけではない。ただ、自分が感じた ままを隠しきれずに、つい、洩らしてしまったに過ぎなかった。 それだけ、だろう? あくまでも、予感だ。そんな気がするって程度の、曖昧なやつだ。 イツカの身体は警察署内にある。陽さえ差し込まなければ、イツカにとっても さすがに“ここ”は、相当な安全地帯と言えるはずだ。何しろ、“ここ”では 大抵の犯罪を未然に防ぐことが出来る。署であるという、明快な事実はかなり 効果的な抑止力となり、このビル全体を平穏な区域へと化けさせている。 貧弱な設備だけどな。だが、ここでやっちまうって、奴は稀だよ。誰だって、 ここでばかりはネコを被る。即逮捕だもんな。 むろん、イツカの地下邸には遠く及ばない、当たり前の安内装だが、それでも 署内は安全だ。少なくとも、ここでは軽はずみに犯行に及ぶ者はいない。 それで十分じゃないか。こんな所で人を殺す者も、火を放つ者も、金を盗む者 もまず、いないんだから。 署内はほぼ安全だし、外に出ても、イツカにはあの怪力フォレスがいる。家に 帰れば、“ドア”だって、味方だ。恐れるものなんて、ないじゃないか。 しかし、安全圏と思える署内にいてさえ、イツカは青ざめ、生気のない顔を していた。彼が不安を感じていたことは事実だろうと、ウィルは振り返る。 事実は事実だ。あいつ、怯えていたのかも知れない。 釈然としない。今、本人がいないまま、イツカという“現物”なしに瞼に再生 してみる、数分前のイツカはまるで、蝋人形のように虚ろだった。 確かに怯えて、だが、それを出さないように腐心していた。本当は見た目以上 に怯えていたんじゃないか? 理屈はわからない。だが、イツカはもうじきに我が身に不吉な何かが迫るやも 知れない、そう予感して怯え、ああまで弱々しく呟いたのだ。 『嫌な予感がする』 そう、言ったんだ。 だが、ウィルにはイツカに、そんな言葉を吐かせた原因が思い当たらない。 ウィルが知るイツカはある意味、この世の誰より、安全な世界に住んでいる。 怯える必要なんて、あいつの身の回りにはないはずだ。 それでも、ウィルにはイツカの気の迷いと流すことが出来なかった。単なる気 のせいだとイツカ本人に言ってやることも、出来なかった。ウィル自身、深刻 なものを感じてしまい、笑い飛ばせなかった。結果、イツカは青ざめた、固い 表情のまま、署長室へ入って行った。そのこわばった背中は疲れ、小さく薄く 見えた。 かわいそうに。何か、気の紛れることを言ってやれれば、良かったのに。 疲れたイツカに何も言ってやれなかったことに、ウィルは小さな悔恨の念を 感じている。だからこそ、署長の部屋に向かったイツカを見送り、そのまま、 こんな薄寒げな廊下の長椅子に陣取って、イツカの帰りを待っている。 捨てては帰れない。 それにしても、一体、何を理由に、イツカは不安を感じたんだろう? それが知りたくて、ウィルはずっと考えているのだ。 嘘じゃなかった。大体、嘘を吐く場面でもなかった。 そもそも、イツカは嘘を吐く質ではない。日常的に嘘を吐く、吐かないの性格 の違いは育った環境が培った個人の性質が生むのだと昔、読み耽った育児書に は書かれてあった。それを元に検証してみると、イツカの育った摩訶不思議な あの環境下ではイツカには嘘を吐く場面が全くなかったと想像出来る。イツカ にとって、対象となる話相手は常に同じ一人だけだった。それも基本、イツカ の意向を汲み、イツカ一人に注意を注ぐ雇われた子守りだけだったのだ。その 結果、イツカには自分を良く見せようとか、誰かよりも先んじたいとして、嘘 を吐く必要は生じることもなかった。幼いイツカには嘘を吐く必要そのものが 皆無だったのだ。 どう考えてみても、嘘を吐かない。当然、あれも意図を持って、吐いた嘘じゃ ない。あれは本当に不安を感じて、それで言った本音なんだ。 イツカは何らかの不安を感じ取り、それを内に留めおくことが出来なくて、 つい、洩らした。そこには何の他意もなかったのだろう。だが、それは傍らに いたウィルから見れば、不穏ではなく、むしろ、不思議な事象だった。イツカ の口から出た弱音だとは、俄には信じ難い程に。 だって、怜悧な頭の持ち主じゃないか? 見かけはあんなだけど。 何の根拠もない、予感なんてもので、あんな真っ青になるほど怯えるなんて、 変だ。頭の弱い、並みの連中とは違うのに。 どうしてもウィルには“嫌な予感”とやらに不安を覚えるイツカと、イツカの 中身とが結び付かない。人はまやかしを信じる生物だ。この世には有名どころ から無名の者まで、人の数には及ばないものの、それ相当数の神が“いる”。 更に神ほどにはない、だが、神に準ずる信仰の対象者や物品を数え上げれば、 まさにきりがない。いわば、乱立状態なのだ。 店だったら、潰れているよな。 同じ業種の店が何千と軒を連ねていたならば、到底、商売にはならないが、神 は何千といても、成り立つものらしい。 その点はさすが、“神”だ。 |