信じる者は救われるのか、否か。凡人が抱えがちな古めいた謎の一つだが、 信じることが即ち、対象となる団体の懐を潤すこと、それだけは間違いない。 なぜ、人は会ったこともない“神”を信じるのか? 信じることが出来るのか ? ウィルにはきっと生涯、解けない謎だが、そこにはきっと誰かを信じ切る 喜びや、心を、いや、自らの思考そのものをすっぱり委ねてしまう心地良さが あるのだろう。ウィルは身近に一人、全てを委ね、その教義通りに生きる信者 を抱えている。 あんな他人の考え通りに生きるのは気楽だろうよ。何も、自分の頭で考えない 生き方なんて、生きている意味がないんじゃないかな、と思うけど。 所詮、想像に過ぎないことだが、シャロームが毎日、喜びを感じながら床を 磨くのは、自分が磨くその床こそが神の住む宮殿へ続く、一筋の道だと信じて いるからだ。夏の暑い日だろうと、冬の寒い日だろうとシャロームは微笑んだ まま、せっせと床を磨く。それはウィルには信じられない奇行だが、それでも 彼女にとっては神へ繋がる一本きりの“道”を洗い清める手段に他ならない。 “道”である床を磨くことは信者にとって、何より欠かせない、清々しい行為 であり、それはまた、自らの魂を磨くことでもあるらしいのだ。 そうそう都合良く、簡単に修行が積めるはずがないのに。 だが、盲進するシャロームの行き着く先にはもしかしたら、神御本人が立って いるのかも知れない。いる、いないという最終決断をするにはウィルはあまり に弱輩者だ。 不見識なオレにはいる、いないは結局、わからない。そんな大それた判定する 度胸もないし。 いる、いないはわからない。だが、信じる者の数だけ、神がいるはずはない。 当然、皆が大真面目に信じようとも大抵は気の迷いであり、無駄でしかないの だ。 どれほど行けども、その先に神が待っているはずがないし、頼りの神がいない 以上、御加護とやらはない。当然、天啓もない。まして、人間が己に接近する 未来を、危機を嗅ぎ取れるはずがなかった。 つまり。予感とか、胸騒ぎとか、そんな、さしたる根拠もないものをよりにも よって、イツカのような職種の人間が気にするのは的外れなんじゃないか。 ウィルの予備知識など底の浅い、頼りにならない代物だが、それでも死体は 室温何度の部屋なら何時間で、どの程度まで腐敗が進むかという程度の知識は ある。その決まり通りに何もかも、数値取りをして、分析出来る専門家である イツカがなぜ、何の根拠もないまま、怯えるなどという失態を演じるのだろう ? 大体、その勘とやらが当たっていたって結局、偶然だろ? 青ざめたイツカが自分の胸にぶら下げた“墓”代わりの小瓶を握り締め、何を 恐れ、その恐怖に耐えていたのか。それはイツカ本人にしか、わかり得ない。 外される、と予想はしていたけど。でも、それは恐怖じゃないよな。 ウィルは当初、イツカは自らが捜査から外されることを恐れ、嘆いているの だと思った。だが、考えてみれば、それはいささか、的外れな推察だ。イツカ は監察医の一人だ。有能とは言え、捜査陣とは異なる立ち位置にある。犯人が 残した最大の物的証拠である死体から事実を見出す、それが彼の仕事であり、 捜査に必要不可欠な役割と言えるが、ウィル達のような端末として頑張る捜査 陣とは明らかに一線を画している。 だって、オレ達は通常、監察医とは同じチームだって、認識を持っていない。 捜査陣には様々な役割があり、それを担う顔触れは多種多様と言える。だが、 自分の命を預け、他人の命を与る、最前線に居座る者達にはそれなりの連帯が あり、そこには人種云々という、低レベルの争いはなかった。その一方、捜査 に直接的に加わらない者達へは何の愛着も感じていなかったし、向こうもそう だろうと思っていた。 こんな稀薄な間柄じゃ、捜査から外されるからって、悲しむわけがないよな。 だったら、一連の事件そのものに思い入れがあったのかな。 イツカは何を恐れていたのだろう? 確かに彼は何かを恐れていた。だが、 特殊な子守りが常時、傍にいる人間が恐れるもの、恐れなくてはならないもの とは一体、どんなものなのだろう? ふと、気付くと、窓の外には激しい雨が 降り注いでいた。地下のラボにいる間は気付かなかったが、外では厳然として 降り続いていたようだ。ちらついていた雪はいつの間にか、雨へ変わり、その まま、激しさを増しながら降り続けていたらしい。捜査は粛々と続いている。 廊下を行き交う仲間達。今はシフトが崩壊している状態だ。見慣れた昼間の顔 も、見知らぬ夜間の顔も入り混じり、口々に何ごとか言い争いながら、彼らは 署内を行き交っていた。 「ウィル」 仲間の一人、ロバートが片手を上げて、ウィルを手招いた。 「そんな所で雨なんぞ、鑑賞している場合じゃないぞ」 「すまん。今一つ、夜更かしに弱くてな」 ロバートはクスリと笑い、それから気を取り直して、自分の手にしていたメモ の束をウィルへ差し出した。 「何?」 「身元が判明したよ。“先生”のアドバイス通り、ネイルサロンを当たったら ば、ピンポイントだった」 「ピンポイント?」 ロバートは頷いた。 「二日前か、予約を入れていたのに来なかった、“若くて有能、とっても幸せ な人生を歩んでいる黒人男性客”がいるって、女主人は言うのさ。生真面目な 人なんで、断りなしにキャンセルするなんて、考えられないってね。その客に 電話をしても出ないし、自宅を訪ねてみても反応なし。で、捜索願いを出そう かと店で協議していたところだって。彼、一人暮らしだって」 ウィルは同僚の手から資料を受け取りながら、思わず、顔をしかめていた。 「今度はヴァイオリニストか」 |