重いな。 現実としか思えないようなリアルな感覚に戸惑いながら、ゆっくりと、いくら か気取って、ウィルは黒い包みを実験室に並べられた机の一つへ運んで行く。 愛するアリスのため、まるで特命を受けた戦士のようないい気持ちで、ウィル は机上に恭しくそれを置いてみた。改めて、よく見ると、その黒布は厚手で、 きめが細かく、光沢があって、単に日差しを防ぐだけの物にしては、やや高価 過ぎるように見受けられた。 よほど大事な物が入っているってことかな。 だけど、夢とは言え、たかが小学校の実験室で、そこに恰好付けに並べられた 標本なんだぜ? 御大層な物なんか、置いてあるわけがないのに。 指ですりすりと擦ってみる。布越しにだが、確かに冷たいガラスの硬質な感触 が伝わって来る。指の腹で感じ取る情報にはまず、間違いはないものだ。 つまり、この中には大きなガラス瓶が入っている。他と同様に。 そこから一体、何が出て来るのか。ウィルは期待に胸を躍らせつつ、黒い布を 引き取り、そして、そのまま、凍り付いていた。 自らの間抜けな様を見ずに済む。それは幸いだ。驚きのあまり、息を呑んだ まま、ウィルは迂闊にも自分はこのまま、死ぬのではないかと、怯えてもみた のだ。しかし、ややあって、それもないと、ゆるりと気付く。どうあっても、 これは夢だ。どれほどみっともなく慄き、ビクついたとしても、まさか、心臓 が止まることはない。ここで見、聞き、体験すること、その全てには何の根拠 も、脈略も必要ない。 だって、夢なんだから。夢を見て、驚いて、それで死んだ奴なんて、見たこと も、聞いたこともない。荒唐無稽ってもんだ。夢の中じゃ、理屈を考える必要 はないんだから。 ただ。 この不思議な、めったにお目にかかれない“物”を見ている、この不可思議な 経験を楽しめば、それでいいんだよ、ウィル。 躍起になって自分に言い聞かせ、ウィルはもう一つ、息を吐く。少しは落ち ついた。突拍子もないリズムで小躍りしていた心臓もいつもの、慣れた単調に 戻ったように思う。若干、跳ねた後の痛みも覚えるが、それには拘らないこと にした。 目を瞑るさ。 念押しのため、天井を見上げ、もう一回、深呼吸してみる。動揺を静めるため 苦心し、ようやくウィルは自分の視線を再び、瓶の中へと戻した。 御多分に漏れず、大瓶の中にも液体が詰まっていた。しかし、その瓶だけは 他と違う、見慣れない青いそれが満ちている。そして、その液体の中にゆらり と漂う、髪。その持ち主たる、頭が一つ。それは整って綺麗な、穏やかな顔を していた。滑らかな額、柔らかそうな頬、しなやかな首筋にじゃれつくように 髪は柔らかく優雅に揺れて、ついでにウィルを震え上がらせた。 簡単なことだったんだ。髪が動いてるんじゃない。オレが瓶を動かしたから、 中身の液体が波を打った。それで髪が揺れた。ただ、それだけの話なんだ。 別に髪が生きていて、好き勝手に動いたわけじゃない。それにしたって。 何で、オレは、こんな夢を見ているんだ? 自分がこんな不可思議な夢を見ている理由もわからないまま、ウィルは青い 水の中でおとなしく目を閉じている“彼”を見つめてみる。誰だかわからない わけではなかった。それは決して、見知らぬ誰か、ではない。ウィルは“彼” を知っていた。見たのは一度きりだが、それでもまだ一日と経過していない。 忘れようもなかった。言うなれば、つい先刻、会ったばかりなのだ。 イツカ。 瓶の中にはその聞き慣れない音を名として持つ、監察医の頭が収まっていた。 その光景自体が異様ではある。だが、なぜ、それを自分が夢の中でとは言え、 引き当ててしまったのか、ウィルには皆目、見当もつかなかった。 何で、オレは、こんな奇妙奇天烈な夢を見ているんだ? 薄青い液体の中でイツカの頭はじっとしている。液体の揺れも鎮まり、既に 何事もなかったように瓶の中は静寂を取り戻していた。 絵のようだ。 ウィルは小さく嘆息していた。そこにあるのはただ美しいだけの、青い世界。 身体は、どこにあるんだろう? ぐるりと周りを見回してみたが、ここには肢体を収納出来るような、そんなに 大掛かりな施設はない。 いや。 そんな現実的に考える必要はないんだ。所詮、夢なんだからな。 でも、だったら、尚更、“夢なりの”続きがあるんじゃないのか? 身体も分割されて、まだどっか、他の標本棚にあるんじゃ? 小瓶に分けて、とか。いくら夢でも、そこまでは見たくないけど、さ。 ウィルは不意にピクリと、小さく肩を震わせた。 コポッ。 そんな音がした。水中で、誰かが立てる呼吸音のような、そんな音。しかし、 ここにダイバーはいない。いるわけがない。スーツを着、ボンベを背負って、 ぺたぺたと廊下を歩くことは出来る。 馬鹿だと思われるが。 だが、あたかも水中で呼吸するかのような物音を立てることは出来ない。 ここはプールじゃない。教室なんだからな。 ウィルは自然、笑い顔を作ろうと、顔面に力を込めてみた。 オレも想像力、たくましいよな。夢の中でまで、こんな想像してみるなんて、 さ。妄想家だぜ、ったく。 ウィルは震え出しそうだった。だが、どうでも怯みたくなかった。自分の頭が 良い方ではないことくらい、よく知っている。せいぜいが並だろう。 でも、オレにはアリスがいる。そこら辺のろくでなしとは違う。だって、あの アリスが選んでくれたんだから、オレにはどこか、見所があるはずだ。 その自分が夢とは言え、怯え、震えているわけにはいかない。 ウィルは気味悪さに総毛立ちながら、それでも、その音がした方向を見た。 何事もない。整った顔は水中でおとなしく、静止している。 そうだよな。息なんて、するはずがないよな。吸うのも吐くのも無理だよな。 ウィルが安堵し、全身の力を抜いたその時だった。まるで、そのタイミングを 見計らい、待っていたかのように突然、イツカの目が開き、ウィルを見た。 ! 水中でイツカは瞬いた。その唇は笑みを作ったようにさえ、見えた。頭だけの 彼はウィルを見やり、その上、微笑んだのだ。意味深に。 |