もしかしたら、イツカの身体は緊急を要する事態に陥っているのではないか ? 地下育ちの彼にさほどの地力があるとも思えない。陽に当たれないイツカ は更に雨にも触れることが出来ないと言っていた。 意味はわからないが。 ウィルは窓の外へ視線をやった。何の恨みを込めたか、雨は一層、強くなって 来た。 イツカはずっと署内にいて、直接、雨に濡れたわけじゃない。だけど。もしか したら、この湿度に痛めつけられているんじゃないのか。 例え、全てのドアと窓を閉めても、人と空気が頻繁に出入りする地上で湿気と いう侵入者を完全に断つことはほぼ、不可能だ。 空気中に雨粒が漂っているようなもんだからな。 原因はわからないが、現状のイツカはだるそうで、とても健康には見えない。 熱が出たんだ。 イツカは立っているのも辛そうだった。ドアにもたれ、それでどうにか、身体 を支えているような有り様だ。 これじゃ、小瓶だって、首筋に食い込んで来るみたいに重く感じるのかもな。 自分で外そうと試みたのだろう。普段は服の中にしまい込まれ、隠されている 小瓶が引き出されて、露わになっていた。 あんまり体調が悪いから、自分では巧く留め金を外せなかったんだな。それに しても、悪そうだ。 「おまえ、大丈夫なのか?」 今にも、ずるずると床へずり落ちてしまいそうなイツカの身体にウィルは右腕 を伸ばし、ぐるりと巻き付けるようにして、身体を固定する。そうまで接して みると、ただならないほどイツカの身体は熱く、小さな吐息は苦しげだった。 「おい、医者を呼ぼうか? いや、フォレスを呼んだ方がいいか?」 ウィルの問いかけに、イツカは未だ、答えることは出来た。 「フォレスなら、外にいる」 「外? あいつ、来ているのか? いつから?」 「さっき、来た」 窓の外で降りしきる雨音に、今にもかき消されそうな弱い声だ。やはり、尋常 ではない。フォレスは自宅でイツカの仕事が終わるのを待っていたはずだが、 待ちきれずに署の前まで出て来たということだろうか。それともイツカが呼び 寄せたものなのか。 どの道、オレが思うより、連絡はまめに取っているんだろう。 「あいつが来ているんなら、呼んで来るよ。薬を飲むとか、何かしなくちゃ」 「来られないんだ」 「来られない?」 イツカは喘ぐような息を洩らす。その吐息の熱さに、ウィルはすぐさま医者 に診せるべきだと思うが、イツカはウィルの腕をギュッと掴み、それを望んで いない様子を見せた。 「言っておくけど、医者なんて、いらない。家には何人もいるんだから」 それが軽口のつもりなのか、確かめる余裕がウィルにもなかった。 「フォレスが来られないのなら、医者を呼ぶか、どうかしないと。いや、待て よ。外にいるのになぜ、来られないんだ? おまえのお守りが仕事なのに」 俯いたまま、イツカは瞬いた。どこを見ているのかわからない視線は、だが、 床の上を這うことはなかった。 「イツカ?」 「やばいのが来ているから、、、」 「やばい?」 ふと、ウィルは自分の背後に、のそのそと歩み寄って来るロバートの気配を 感じ取った。 やばいって、こいつのことか? 確かにロバートの言動は気に触る。ある意味、鼻つまみ者だ。当然、彼なら、 どう見ても育ちの良さそうなイツカ相手でも、何を言い出すか、わかったもの ではない。 わざわざ、会いたいタイプじゃないな。 しかし、あのフォレスが自分の職務を放棄してまで、接近を拒むような脅威だ とは到底、思えない。もし、フォレスが一発、本気で殴れば、ロバートの人生 はその場で終わりかねないはずだ。 こいつであるはずがない。こんなのをフォレスは恐れない。 だったら、誰のことだ? 誰を恐れて、フォレスは職務放棄しているんだ? 戸惑うウィルの傍らまで寄って来たロバートがニコニコと、やはり、茶化し 始める。 「やっぱり、そういう仲なんじゃないか? お熱いね」 「おまえ、冗談も大概にしろよ。具合が悪いって、見てわからないのか?」 「ウィル、早く外して」 イツカの苦しげな声に、ウィルは瞬時に我に返る。 「あ、ああ、わかった」 ちゃらけた同僚をひっぱたいてやりたい心境だが、今はイツカの願いを叶えて やる方が先だ。ウィルはイツカの身体を右腕で支え、サラサラと音を立てそう な髪で覆われた項に居座る留め金をどうにかして、外そうと試みる。しかし、 既に自力で立っていられなくなったイツカを抱えたまま、片手で小さな金具を 外してやれるほど、ウィルは器用ではなかった。一旦、手近な長椅子にイツカ を横たえ、それから留め金を外すべきかと考えた、その時だった。 ゾクリとした。確かに背筋に冷たい何かが触れた。ウィルがギョッとして、 振り向くと、ニヤついたロバートがこちらを覗き込んでいた。 「ウィルは鈍臭いな。ま、オレが代わりになんて、野暮なことは言わないけど さ」 こいつじゃない。 「消えろよ。邪魔なんだ」 違う何かを感じたのだ。ウィルは辺りを見回してみた。耳を傍立ててもみた。 だが、この管理職用のフロアーに先ほどまでいた人影はなく、下の階の喧騒が 僅かに漏れて、遠く聞こえるだけだ。 でも。さっきのは確かに、人の手が触れたような感じだった。 「何、キョロキョロしているの? 外してやんなきゃならないんだろ?」 「うるさい。消えろ」 「そう言わずに、オレに貸してみな。ちゃんと外してやるよ。片腕じゃ、無理 だ」 「それ以上、近寄るな」 「ケッチだな、おまえ。減るもんじゃなし。気持ちはわかるけどさ」 ニタニタと下卑た笑みを浮かべ、ロバートはイツカの胸元で揺れる銀の小瓶を 見据えた。 「それにしても良い細工だな。相当なお値段だろうな、それ」 彼はひょいと気軽に、そう、何の遠慮も、大した意図もなく右手を伸ばして、 いきなり、他人の小瓶を鷲掴みにした。 「うっわぁっ。あっ。あっ。ぎゃあっ」 そんな悲鳴を上げながら。 |