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ゴボッ。


ゴボッって?


 ウィルは自分の鼻先を通り過ぎ、立ち昇って行く気泡を目で追った。空気の
玉がどこか、上の方へ昇って行く。それだけの様子をどうにか視認は出来た。
やけに眩しいな。目も、開けていられない。
ゴボッ
ゴ、ボッ。





先程の気泡は第一陣に過ぎなかったようだ。後を追い掛けるように新たな気泡
が矢継ぎ早に同じような軌跡を描き、昇って行く。そしてウィルも再び、それ
を見送った。他にすべきこともない。目は少しだけ、眩しさに慣れて来たよう
だが、それでも十分には働かず、気泡の行方を突き止めるまで至らなかった。
ウィルには依然、気泡が“何”を意味しているのか、わからなかった。
 辺りは水色だ。明度が高過ぎ、眩しくて、長く目を開けていられない。刺し
込んで来る眩しさを堪え、目が慣れるのを待ちながら、せめてもの足しにと耳
を欹ててみた。しかし、気泡の立てる音くらいしか、聞こえもしない。やけに
静かで、そして、摩訶不思議な世界だと思えた。
ゴボゴボッゴボゴボッ
更に勢い良く、気泡は放たれる。そしてその間隔は明らかに短くなって来た。
何のことだろう? 
ゴボ、ゴボって? 
誰か、今、溺れているような。
ウィルは迂闊にもそんなことを思い付き、すぐに“事実”へと訂正しなければ
ならなかった。
誰か、じゃない。
オレだ。
“オレ”が、溺れかけているんだ。
ウィルは瞬いた。
息苦しい。
そう感じて、初めて、自分が置かれた状況が現実として、理解出来た。気泡は
ウィルの口から、鼻孔から、次々に水中へと吐き出されて行く。それは半ば、
ウィルの体内から酸素が吸い出されているようなものだった。
つまり、あの気泡も、この気泡も“オレの中”から奪われた空気だったのか?
だったら、そんな泡、見たくもない。
思わず、視界とそこに映る現実をシャットアウトすべく、目を閉じる。どうせ
眩しくて、鼻先くらいしか見えもしない。それでもいいと思った。
大体、何で、オレがこんな水の中にいるんだ? 底に足が着かない、おまけに
水面へ手も出ないような深い所に。
 わけがわからなかった。しかし、悠長なことは言っていられない。切迫して
いるとはっきり、わかる。そればかりはどうにも否定の仕様がなかった。身体
が感じる不安をどうにかしたい一心でウィルは精一杯、手足を動かしてみた。
すると手足のあちこちで“何か”に打ち付けたか、もしくは擦りつけたような
不快な感触があり、ウィルも、目を閉じてはいられないと悟った。
何かある。腕や、足を伸ばした先、それくらいの距離の所に何かあるんだ。
 なぜ、自分がここに、水の中にいるのか。その経緯がわからない。転落した
記憶など、ない。もちろん、自ら、水に飛び込んだ覚えもない。
オレは、さほど水が好きじゃない。わざわざ入ったりしない。
だが、現実であって、決して夢ではない。何しろ、確かに息苦しいのだ。身体
が丸ごと、水中にいる。生き延びたいと、もがいている。
残念ながら、夢じゃない。身体が実感している。紛うはずがない。だったら、
とにかく即応しなければ。溺死なんて、冗談じゃない。
ウィルはゆっくりと息を吐き出した。
慌てるな。少しずつ、目が慣れる。そうすれば、指先切ったりとか、しないで
済むし、新しい情報を得ることが出来る。少しは事態が呑み込める。
 先程、もがいている内に打ち付けたか、擦ったかしたのだろう。指先に微か
に痛みを覚える。だが、そんな掠り傷を構っている場合ではなかった。体内に
蓄えた酸素はそうそう長く保ちそうもない。既に息苦しさが先に立ち、のん気
に構えることなど、出来なかった。
猶予がない。
いくら力んでも、人間である以上、水からは酸素を取り込むことが出来ない。
不可能だと大抵の人間は知っているし、当然、ウィルも知っていた。
小学校くらいは真面目に通ったからな。
どうして、こんな場面でも、先ず、自分は茶々を入れずにはいられないのか。
その疑問にぶち当たりながら、だが、さすがにウィルにも、それを考えている
間がないことはわかっていた。
先ず。
先ず、落ち着こう。ほら、ウィル。シャロームを思い出すんだ。
あの叔母さん、昔、よく言っていたじゃないか? 
何回も、言っていた。
神様、神様、神様って、三回唱えたら、人間は絶対、落ち着くって。
そう、シャロームが確かに言っていた、、、。
 それは信仰心を持つ律儀者にだけ与えられる、奇特な効果だろうと、普段の
ウィルなら考える。当然、自分には無縁の恩恵だと考えるはずだが、この際、
自分の日頃の不心得には目を瞑ろう。もう教会には十年以上、自分の用件では
出向いていない。誰かの葬儀か、結婚式でしか、訪れていない。
こんな不心得者じゃ、助けてくれとは言えない。だから、神様、こんなオレで
も許してくれるなら、冷静さをくれないか? あとは自分で出来るだけのこと
をする。自力で頑張るから、せめて冷静でいさせてくれ。オレだって、未だ、
死ぬわけにはいかないんだ。
ウィルは目を凝らした。今は視覚から情報を得るしかなく、幸いなことにそこ
は暗闇ではなかった。
明るい。いや、むしろ、眩い。
きっと、これもシャロームなら御加護と喜ぶ、僥倖なんだろう。
最悪じゃないんだよな? 見えるってことは良いことだよな。つまり、オレは
運に見放されたんじゃない。死ぬと決まったわけじゃない。きっと、どうにか
出来るはずなんだ。
そう自分に言い聞かせ、ウィルは高まる心拍数をどうにか抑えようと、躍起に
なっていた。これ以上、興奮してはならない。無駄に酸素を消費するわけには
いかなかった。持ち合わせた酸素はごく少量だ。残念だが、あと一分か二分、
命を長らえさせるのが精一杯の微量なのだ。無駄に使うわけにいかなかった。
落ち着け。落ち着け。

 

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