辺りを見ろ。 きっと、何かが見える。こんだけ見えているんだから、脱出出来るドアなり、 キーなり、何かしら見つけられるはずだ。 どこかに光源があるのだろうか。周囲は極めて、明るい。青い光が差し込んで いるらしく、眼前には水色の世界が広がっていた。見ようによっては美しく、 類い稀な世界だ。南の島の、浅い海を思わせるような青い水は冷たくもない。 だが、海ではない。そこに魚はいないし、海藻らしき、たゆたう植物もない。 大体、塩味じゃないし。べたつく感じもない。視界も悪くない。良く見える。 目が慣れて来たんだな。 しかし、視力はウィルを一層、慌てさせるだけの、嫌な側面を見せても来た。 何なんだ、これ? 慌てふためいていた数秒前。ウィルはバタバタと手足を動かしていて、それに 散々、手先や靴先をぶつけ、擦り剥き、痛みも覚えた。 壁? 壁だって? 目の前には元々、白いらしい、青ざめた壁がある。その壁は真っ直ぐに、上下 に伸びていた。当然、その壁の方へは進めない。しかし、振り向くと、そこに も同じ壁があり、やはり、上下に伸びている。 つまり、前も、後ろも塞がれているってことだ。 ウィルは当然、上へと水をかき、進みながら、少しだけ身体を傾けて、新たな 進路を捜してみる。 何だ、これ? 半信半疑のまま、上へ、時折、斜め上へも泳ぎ進む。その度、そこにはやはり 壁が待ち構えていて、ことごとくウィルの進路を断つのだ。敢えて、その状態 を何かに例えるなら、迷路だろう。子供の視界と行く手を遮る壁がべらぼうに 高く、水中でそびえ立っている。しかも、ブロックの層は微妙にずれた状態で 重ねられているようで、単純に頭上がすっぱり開いているわけでもなかった。 水中でこんな幅の狭い、先のわからない所に突っ込んで行く度胸は、さすがに ない。 行き止まりとなれば、斜めに泳いで、大きな切れ目を捜し、また上へ泳ぐしか なかった。 それでも上に、上に泳ぐしかないのか? 確か、アンダーソン先生が言っていた。身体の中には肺と言う部分があって、 そこには空気がいっぱいに詰まっているのだと。だからもし、川に落ちても、 じたばたもがいてはいけない。力を抜いて、良い子にしていたら、自然と上へ 浮き上がる。心配しないでいいのだ、と。 『だって、ここに二つも、浮き袋が入っているんだよ。ちゃんと家族が待って いる家に帰れるからね』 人が落ちるような川なんて、ない町だったけどな。 彼は人の良さそうな顔で笑っていた。来る日も、来る日も同じように微笑んで いた。まさか、彼が自分の妻を蹴り殺すなど、誰一人、思ってもみなかった。 裏切り者だ。結構、信じていたのに。 毒づきたい気持ちをウィルは呑み込んで、精一杯、この現実に向き合いたい と思った。 ちっ。 あんな口先だけ野郎の、子供向けアドバイスに縋らなきゃならないほど、オレ は今、生命の危機にさらされているのか。ざまぁないな。 あの教師が嘘吐きで、善良そうな笑顔がまやかしだったとしても、肺の機能や その存在意義に間違いはない。両肺は懸命にウィルの身体を上へ、恐らく空気 があるだろうその世界へ持ち出そうと、働いているはずだ。 必ず、水上へ出る。だって、まさか、この水の天辺が一キロも先にあるなんて ことはないよな? オレ、誰に向かって、確認しているんだ? 人っ子一人、 いやしないのに。 ウィルはパチパチと瞬いてみる。眼球に触れるどころか、まるで押し潰そうと 狙っているのではないかと疑いたくなるような水圧が恐ろしい。 もしかして、本当に深いんじゃないか? 浅瀬のような明るさなのに。 今、水の中にいること、それ自体は間違いない。事実だ。しかし、この現実は 一体、いつ、どうやって、始まったものなのだろう? それすら、わからない まま、ウィルは手に負えない現実に四苦八苦している。呼吸を我慢し始めて、 経過した時間は一体、何分なのか? 意外と短かったりするんだよな、こういう時間って。 もし、助かることが出来て、この時間を振り返ったなら、きっと、拍子抜け するほど、短い時間なのだろう。だが、今のウィルにとってはあまりにも長い 時間だった。 実際、気が遠くなりそうなんだよ。 酸素の残量を気にしながら、それでもウィルは懸命に両足を動かして、一刻も 早く浮上すべく努める。それが何秒の努力なのか、自分で計ることが出来ない のが残念だが、依然としてウィルは水中にいた。大ぶりな身体全てがすっぽり と水の中にはまり込んでいて、もがいても、もがいても、水面に辿り着けず、 必然的に空気にはありつけないままだった。 苦しい。 苦痛はそろそろ、気の迷いではなくなっていた。ウィルは瞬いた。乾いた赤茶 色の町に生まれたためか、元々、泳ぎは得意ではない。そもそも水に親しんだ ことがない。 でも、泳げる。アリスみたいに、人魚みたいに優美には泳げないけど、でも、 オレは実用的に泳げる。それなのに。何で、水面に辿り着けないんだ? いい 加減にしろよ。そんな深いプールなんて、普通、ないだろ? ウィルは“上”を見た。頭の“上”。水中にいて肺が示す、“上”と“下”。 そう考えると、ウィルが向かっている先には間違いなく水面があり、その先に は空気が満ちた、当たり前の世界が待っているはずだ。しかし、なぜ、そこに これだけの時間と、水をかく労力を費やして出ることが出来ないのか、ウィル には皆目、わからなかった。 大体、何でオレ、水の中にいるんだ? おかしいじゃないか? オレは警察署 に、署長室の前の廊下にいたのに。 確かに、いや、間違いなく、ウィルは何分か前には警察署内にいた。署長室 の前の廊下にいて、ウィルには署を出た覚えがない。 出られるわけがない。エクスタが、あいつがオレの進路を塞いでいた。オレが あいつの要求を呑まない以上、あいつが通してくれる道理はない。それに残念 ながらオレにあいつをどうにかして、イツカを連れて逃げ出せたはずもない。 そんな力、オレにはない。 ウィルはもたつきながら、自分の両手が自由自在に動くことを確かめる。目で 見ても、結果は同じだった。 何でオレ、“手ぶら”なんだ? イツカはどこに行った? あんなにしっかり 抱えていたのに、なぜ、いないんだ? |