ウィルには自分がこんな状態に陥っている理由がわからない。 なぜ、オレはこんな所にいる? 本当にわからないんだ。 やけに澄んだ、冷たくはない青い水。そして、そこら辺中にあたかも、ウィル の脱出を阻むかのように御丁寧に長く、高く張り巡らされた巨大な迷路のよう な白い壁。それが今、ウィルの目に映る、全てだった。 奇怪だ。こんなの、おかしい。 ウィルはため息を吐きたかったが、今回ばかりは断念せざるを得なかった。 ため息も吐けないのか、こんな水の中じゃ。 瞬きとため息、それくらいはいつでも、どこでも考えなしに、したい時にして もいいのではないか? 他に金も手間もかからない、お手軽な気分転換の方法 があるのなら是非、伝授して欲しい。そんな不服を言いたかったが、ウィルに はそれをぶつける相手すら、見付けられなかった。 つまり、何を言っても、こぼしても無駄なんだ。 目に映る様だけがウィルに与えられた全てだ。 まるで、水中迷路の迷子だ。 どんなに水をかき、必死に泳ぎ続けていても、未だにウィルにはそびえ立つ壁 の終わり、即ち、水面を見ることが出来ない。 おかしいよ。 この世に無限大の壁はない。どんなに巨大な壁も、上下にも、左右にも必ず、 果てがある。ここで終わりだと言う、果てがある。しかし、今、ウィルの前に そそり立ち、行く手を阻むこの壁の尽きる果てとやらは一万光年先にでもある らしかった。 だって、あそこら辺で、もう終わりなんじゃないかって、兆しすら見えない。 これだけ泳いで、それでも水面に辿り着けないなんて。 こんな迷路がある意味がわからない。そもそも、何でオレ、警察署内にいたの にこんな所にいきなり転入しているんだ? まさか、ワープしたわけじゃない だろう? ウィルは自分のくだらない思いつきに苦笑した。薄く、小さく持ち上げた右 の唇の端からあまりにも小さな、頼りない気泡が一つ、二つ、恐らくは最終に 近いそれがするりと、抜け出して行く。 逃げるなよ。オレを置いて。 ぼやけ始めた、いや、とうに認知はしていたが、気付かないふりをして泳いで いた滲んだ視界を横切り、逃げ足の速い気泡は去って行く。そして、ウィルに はその軌跡を追う気力すら、残っていなかった。“現状”はウィルにとって、 不可解この上ない、ふざけたものだった。今、こうして自分が水中にいること 自体が嘘のようだ。溺死寸前の苦痛と恐怖を体感して、これが現実とわかって いて、それでも尚、ウィルはこの現状が自分の生きて来た、一連の人生の続き だとは到底、思えない。 突拍子もない。こんなの、受け入れられない。 ・ 先刻まで、そう、警察署にいた時分のことなら、自分の人生の一部だと承知 出来る。日々、こなし、積み上げて、為して来た日々の一部と納得出来るし、 愛着も持つことが出来る。だが、この現状はそんな血の通い、肉の付いた日常 とは決して、繋がらない。あまりにも唐突に、ウィルのいた日常の場面は切り 替えられたに等しかった。 オレにはこんなめに遭う筋合いなんて、ない。だったら一体、誰の仕業だ? まるでテレビのチャンネル替えるみたいに、誰かがオレの人生を変えたのか? 毎日は“選択”の繰り返しであり、人生はその“結果”の積み重ねと言える だろう。カード自体は自分で引くものだが、時々、不意に誰かが厄介な一枚を 何の断りもなく混ぜて来る。そんな日常を己が身に、他人の身に見て、確かに 人間には満願通りの選択をし続けることは出来ないと知っている。誰かが当人 の了承なしに勝手に手持ちに加えてくれるカード、即ち、思わぬ厄介は一生、 誰にでも付き纏って来るものなのだ。 厄介はいつも不可抗力だ。諦めて、精一杯、対処するしか、策がない。でも、 幾ら不可抗力でも、ある程度、前後の脈絡はあるだろ? 長い人生にはそんな こともあるって割り切れる程度の、何らかの繋がりはあって当然じゃないか。 そう鑑みると、この現状はウィルが当たり前に生きていた日常生活の続きに は起こり得ない、異常な状態と言えるのではないか。 意味がわからない。なぜ、なぜなんだ? なぜ、こんな状態に陥ったのか、それすらわからないまま、それでもウィルに 理解出来ることは二つだけだ。これが夢ではなく、現実であり、残された時間 はごく短い。ウィルは未だ、生きている。辛うじて、生きている。ただ、それ だけの命が水中をゆっくり、ゆっくりと浮上して行く。 泳いでいないけど、上がってる。未だ肺に空気が残っているのか。でも、間に 合いそうにもないな、、、。 |