ウィルは今更、見るものもない水中に嫌気が差し、両目を閉じた。この現状 は釈然としない。到底、何一つ、納得も出来ない。しかし、これが現実である 以上、ウィルの傍には当然、イツカもいるはずだった。 どうしていないんだ? あいつはもう、自力じゃ、とても動けなかった。だから、オレが抱えていた。 それなのになぜ、今、オレの手元にイツカがいないんだ? これが署内にいた あの瞬間の続きなら当然、イツカもここに、オレの腕の中にいるはずだ。オレ があいつの手を離すはずがない以上は、絶対に。 署内に忍び入っていた雨粒に侵され、高熱を発し、人形同然と化していた彼。 そのイツカを持ち去るために、エクスタは豪雨の中、わざわざ来ていた。 オレが手を離したら、あいつは易々とイツカを連れ去ったはずだ。でも、オレ はそんなこと、させない。死んだって、イツカを持ち逃げさせないって、覚悟 を決めていたんだ。このオレがそう決めていたんだ。アリスが言ったじゃない か? “あなたは頑固だ”って。シャロームだって、“損をするけど、でも、 それがウィルの良いところだ”って、子供の頃、誉めてくれた。 今、思えば、シャロームの分析は魔女によるありがた迷惑な予言のような代物 だったのかも知れないが。 確かに損ばっかりの、出世とは縁のない人生だったしな。 意識とは生命の終わる間際まであるものらしい。ウィルは妙な感心をしつつ、 ひとりでにしみ出るように思い出す声を頭の中でなぞってみる。そう言えば、 イツカはあの廊下で一言だけ、妙なことを呟いた。 “息を止めて” イツカの発言は意味不明だった。ウィルにはそれが何をさしているのか、想像 もつかなかった。だが、水に飛び込む前に言われるような、その忠告を受けて いなかったら、ウィルはもっと夥しい大量の水を飲み、吸い、即座に致命的な 状態に陥っていたことだろう。何のことだかわからないまま、だが、一度は水 を、水に飛び込む様子を連想していたからこそ、短時間での水死は免れたのだ と思う。ウィルにはもう、そんなことを考える時間も、いや、そんな必要すら ないのかも知れない。 タイムリミットか。 ウィルは再び、瞬く気にもならなかった。四方にあるのは水だけだ。明るい 水色の、世界。どこに光源が仕込まれているのか、厄介なプールには明るい光 が気前良く、満遍なく差し込み、たっぷりと水で満たされている。瞼を閉じて いても光を感じる。だが、それも少しずつ、翳り始めていた。何も聞こえない はずの静かな世界に、死の足音が忍び寄って来た。 このまま、オレは溺死するのか? 水って、好きじゃないのに。 まぁ、焼死よりはましか。 アリス。 ウィルは今、彼女に会いたかった。つまらない弱気のために自分がしたこと、 それは取り返しのつかないミスだった。 今、思えば。 別居なんか、するんじゃなかった。もし、このまま死んだら、オレは一人息子 にクリスマスのプレゼントすら、渡さずに死ぬことになる。イツカが購入して おいてくれた玩具がオレの、父親の形見になるのかよ。間抜けだな、それ。 コン。 ウィルには厳密にはその音は聞こえなかった。だが、ぷかりと浮かんだ両腕 の先、丸まった指の関節に何かが当たり、ウィルは目を見開いた。ずっと、頭 上、ウィルの進行方向には水しかなかった。狭まることはあっても、ある程度 はどこか、開いていた。水以外の感触を初めて覚え、最後の力を振り絞って、 ウィルは鈍い身体を精一杯、動かして、どうにか上方向を見た。身体の浮上は 止まっていた。ぼやけた頭でも、辛うじて視認は出来た。透明な、それ。それ に当たり、ウィルの身体の浮上は止められたのだ。 天井があるなんて、、、。 誰かの笑い声がする。ウィルは面妖だと思った。水中に響く、笑い声。それ は聞き覚えがあるようで、だが、ウィルの知る人間のそれとは全く違う響きを 持っていた。 だって、イツカはこんな人を馬鹿にしたような笑い方、しない。 イツカと似た声は透明な天井に阻まれ、立ち往生せざるを得ない、不甲斐ない ウィルをあからさまに嘲笑していた。 誰だ? 幻聴か? 物凄い速さで“それ”は水中を滑り落ちて来るかのような、信じ難いスピード で下方からウィルの目前に現れた。ウィルは絶望し、急速に薄れて行く意識の 下、それでも真偽を見極めようと懸命にもう一度、瞼を押し上げる。そして、 その結果、今、真ん前にある顔。それは完璧にイツカと同じ形をしていた。 イツカ? そんな馬鹿な。 |