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 馬鹿げている。ウィルは“それ”の存在を信じられなかった。それが生物と
して、実在する可能性は無い。ウィルの大脳、いや、生命そのものが今、存亡
の危機に瀕していて、脳は全ての機能を停止する直前にある。
いや。もう、とっくに終わっていた。まともに働いていなかったんだ。
ウィルには諦めなくてはならない最期の時が迫っていた。ならば、“それ”も
信じ難い不可解な物体として見えるものの、実際には酸欠に因る、単なる幻影
に過ぎないのだろう。
確かに見えている。だけど、見えているような気がするってだけで、実在して
いるわけじゃない。あり得ないもんな。だったら、やっぱり、幻なんだ。
ここまで来て、己の実状を思い知らされたような惨めな心地がしていた。
人間、酸素が切れたら、こんな幻を見るのか。
目に映るもの。そのほとんどは実在する。多少、いかがわしく、疑わしいもの
であったとしても。
目に見えるなら、大概、実在する。そりゃ、偶には誰でも、在りもしないもの
を見たような気になる。大抵、光の加減とか、錯覚するような原因があって、
そう見えたってだけで、どうして錯覚したのか、論理的説明の出来る、単なる
偶然だ。もし、火のない所で煙が立ったら皆、大騒ぎするけど、実際には火が
見えていないだけかも知れない。火が見えないから、怪奇現象に見えるだけ。
つまり、この世に怪奇なことなんて、滅多に存在しない。その分野の専門家に
かかれば、科学的に筋道立てて、説明出来る程度の錯覚に過ぎないことばかり
なんだ。ただ、素人には事象を解析出来ないだけで。
だから、皆、気の迷いだと自分に言い聞かせて、お茶を濁す。不思議なものを
見たって、何だかんだ言い訳して、気を紛らす。それしか、出来ないからな。
何にでも要因がある。原因があるから見える、それだけの偶然だ。
こいつも、その“頭”も、ここで何か条件が揃って、それでいかにも、そこに
いるように見える、でも、いない幻なんだ。
 長々と、酸欠寸前の頭で考えながら、しかし、ウィルは釈然としなかった。
頭では割り切れる。“それ”が実在するはずがない以上、幻と断定することは
容易いはずだった。だが、今、適度な距離を保ち、ウィルと向かい合いつつ、
平然とウィルを見据えているその“頭”だけは実在する物としても、また偶然
の産物として、あたかも見たかのように錯覚してしまう幻としても、俄かには
受け入れ難かった。
精密だよな。妄想にしては緻密だよな。でも、やっぱり、幻だよな。いかにも
本物らしく、本当にそこにいそうなんだけど、でも、幻に違いないよな。オレ
には理解出来ないってだけで。
だって、こんな物が実在するはずがない。ほら、ウィル。今更、しっかりした
って、正気でいたって、仕方ないようなもんだけど、でも、取り乱すのだけは
やめておこうぜ。それがささやかな、男の意地ってもんだろ?
そうだ。オレは酸欠だ。もう限界に来ている。正気じゃないから、こんな幻を
見る。認めたくないが、溺れて死にそうなんだ。こいつが現実に存在するはず
はない。オレの脳細胞が勝手に想像したイメージなんだ。妄想なんだ。
それでもウィルは自分が見ている“それ”だけは本物なのではないかと疑う。
だって、イメージなんて、中途半端な、ぼやけた代物じゃない。
“それ”は表情を持ち、水中にいるにも関わらず、何の苦もなさげに見える。
そして、自分を見つめるウィルを、ごく当たり前に見つめ返していた。
妙なリアリティーを感じるのは、なぜだ? まるでここにいるって、言われて
いるような存在感があるのはなぜだ?
自分にはもう、正当な判断を下せない、それだけの話なのだろうか? 
でも、本当にいる。いや、気の迷いなんだけど。でも、やはり、こいつは本物
のような気がする。
 ウィルは瞬くことも出来なくなった目にぼんやりと、だが、現前として映り
込んだそれを眺めた。もし、それが何かと問われたなら、人の頭だとウィルは
答えなくてはならない。それは明らかに人ではなく、人の頭だった。
おまえは一体、何なんだ?
顔貌も、水に揺らめく髪も、イツカと同じだが、ウィルに二人を比較すること
は出来なかった。何しろ、“彼”には“続き”がない。首から先にあるはずの
肉体が欠落していて、ない以上、比べようもなかった。頭部だけの“彼”。
こいつを見るのは、初めてじゃない。何回見たっけ? ラボでうっかり、見た
幻で。もっと前にも、、、。
ウィルは息を呑んだ。
あの瓶詰めの頭だ。
夢の中、小学校の理科実験室の棚に黒布に包まれ、置かれていた瓶の中身だ。
頭部だけの“彼”とイツカ。二つの顔形は全く同じだった。まるで工業製品の
ようにイツカと“彼”は同じ形をしている。それは有機物にはあるまじき偶然
だった。神の冗談かと思うほど、イツカと“彼”は奇跡的な相似形をなぞって
いる。
まさか、コピーは取れないだろう。だったら、これもイツカだと言うのか?
訝しく思いながら、だが、ウィルは違うと直感していた。根拠はないものの、
それでも例え、形が同じであっても、“二人”が内包した中身はまるで違うと
感じるのだ。
この勘だけは、当たっていると思うんだ。
平たく言うなら、頭部しかない“彼”も、イツカと相似である以上、すこぶる
つきの美形ではある。生まれ持つ血が成す、独特の浅い顔立ちだが、過不足は
なく、十分な凹凸の美しさは観賞に値する滑らかなものだった。
同じ形なのに、でも、こいつの顔は嫌だ。イツカの方がいい。

 

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