ウィルは死を間近に控えた今、もし、一切の遠慮や嗜みを放り捨てるなら、 イツカを好ましく思っていたと、正直に告白しても構わないと思う。 やましい気持ちじゃなくて。良い奴だと思っていたって、そう言うよ。 薬の影響か、彼には躁鬱があり、時々、扱いかねたが、それでも得難い友人を 得たと思っていた。 そうでなきゃ、命賭けても守ろうだなんて、思い立たない。オレは女好きなん だから。 ウィルを凝視していた“それ”はくすりと小さく、唇の端で笑った。その気配 にたじろぎ、ウィルは我に返った。二人分の視線が真っ向からぶつかることに なったが、“彼”の方には怯んだ様子は見受けられない。小馬鹿にしていると 気取るのは簡単なことだった。 『何だ? 僕がびくつかないのが不足らしいな、ウィリアム・バーグ』 確か、以前、遭遇した時にもこの“イツカもどき”はこんな口の利き方をした ような、そんな覚えがウィルにもあった。 何でこう、横着なんだ? 少しは口の利き方ってものがあるだろう? 『あいにく、僕には口の利き方なんて、学ぶ場がなかった』 何も聞いていないのに? 『やっぱり、おまえは馬鹿だな、ウィリアム・バーグ。この期に及んで、普通 に口頭による会話を望むのかって、話だよ』 おまえ、前にも、そんな言い方をしたよな? そうだ。まるでオレを見知って いるような、そんな言い様だった。 イツカもどきはゆっくりと瞬いた。彼はまるで水圧には悩まされていない様子 だった。ウィルの夢の中で、水色の液体の詰まった瓶の中に浮かんでいた時と 同様に、彼は悠然と漂っている。 あの夢の続きなのか? 『それも、正解とは言い難い』 それじゃ、おまえは単にオレの、妄想の産物なのか? ウィルの問いに、彼は失笑を返して来た。 『馬鹿とは話したくない』 生意気な“頭”はそう言い放ち、ついと気軽に動き始めた。頭部しかないくせ に、ごく簡単に上昇し、ウィルの行く手を阻んでいた透明な天井をすり抜けて 行った。 えっ? 通り抜けた? ウィルは見失わないよう、慌てて、頭部が行った天井の向こう側を見た。透明 な板の向こうにその頭はある。そして、驚くことにそこでも彼の髪は揺らいで いた。つまり、向こう側にも、水は満ちているのだ。 結局、この天井みたいな壁をクリア出来たとしても、助からなかったってこと か。 絶望に打ちひしがれるウィルの呟きを、“彼”は笑ったらしい。 何で、笑う? おまえはオレに嫌がらせをするためにだけ、存在する悪魔か。 とっとと消え失せろ。 『確かに悪魔かも知れない。だが、おまえの相手をするためにだけ、存在する ほどの者、つまり、馬鹿ではない』 そうかもな。イツカと同じ顔をしているんだ。満更、馬鹿でもないんだろう。 だが、おまえには人が死ぬ、その間際の哀しみがわからないんだ。だったら、 おまえは人としては不完全な、出来損ないだ。賢くたって、意味がない。 いいか? オレには妻も子もあるんだ。気軽になんか、死んでたまるか! 幻相手に血相を変える自分はこの上なく愚かだ。苛ついているにも関わらず、 血圧を上げることすら、出来ない。そんな死につつある自分がさすがに惨めだ と思った。 オレは助からない。だったら、イツカは、あいつはどこに行ったんだ? もどきのおまえになら、わかるのか? “彼”は摩訶不思議な、やけに静かな表情で、ウィルを見据えていた。 幻影に聞いたって、無駄か。 『もどきとは何だ? おまえは僕とイツカが相似だと言うが、それは勘違いと いうものだ』 勘違い? 全く同じ形をしているじゃないか? 『生物学上、相似と言えば、外観が等しく、だが、発生が異なる器官だ』 ウィルは透明な壁の向こう、髪を揺らし、居座る頭部を見つめていた。 何が言いたいんだ? オレが知りたいのは、イツカの安否だけなのに。 『僕とイツカとは全く違う。あれは生身の身体を持ち、一方、僕は持たない。 但し、僕はほぼ自由で、向こうは不自由。ま、お互い、制限はあるわけだが』 これから死のうかという時に、自分は一体、何をしているのだろう? ウィル はため息を吐きたかったが、吐き捨てる酸素の持ち合わせがなかった。きっと この生意気な頭がわけのわからないことを吐き続けるのは、いよいよ、間近に 死が迫っているからだろう。ウィルは渋々、そう認めざるを得なかった。 どうせ、幻と話すなら、アリスが良かった。せめて、イツカと。 ウィルは諦め、閉じかけた目をそれでも、もう一度、開けてみる。そこには 退屈そうな“イツカもどき”が変わらず、ウィルを眺めていた。 返事を聞いていなかったな。イツカは無事か? 嘘でもいいから、気の利いた ことを言えよ、オレの酸欠頭が見ている幻なら。 『イツカの心配など、本末転倒だ』 無事なのか? 『おまえはイツカを知らない。あいつが死ぬわけがない』 例え、自分一人が酸欠の頭で作り上げ、見ている幻であっても、イツカは無事 だと言い切られ、少しだけ、ウィルの気は軽くなった。人生の最期にイツカを 守り通せたのだと思えば、救いはあるだろう。 シャロームだって、アリスだって、喜んでくれる。将来、ショーンも、オレを 誇りに思ってくれる。 感傷に浸るウィルを、“イツカもどき”は笑い飛ばした。癪に障る笑い声に ウィルは死にかけた自分の身体がその内、怒りのあまり、血圧を上げるのでは ないかと、本気で考えた。 『おまえは本物の馬鹿だ。もし、本当に“そこ”で死ねたら、おまえは相当に 器用な男だよ、ウィリアム・バーグ。イツカも、さぞ驚くことだろう』 彼は失笑を我慢出来ないらしく、笑い声を上げていた。 何がおかしいんだ? そこで死ねたら、相当、器用だって? ウィルは目を瞬かせた。もし、彼が事実を言っているのなら、いや、彼の存在 自体がまやかしだが、その言葉のどこかに一片の真実があるのなら、ウィルに は生き伸びる可能性がある、ということなのだろうか? ここで死ねたら、器用? つまり、普通、ここでは死ねないということか? |