ウィルは“もどき”の発した不可解で、つじつまの合わない言葉を反芻して みた。 そこで死ねるはずがない、だって? 透明な天井板の向こうにいる“もどき”から見た“そこ”とはつまり、ウィル が今、いる、こちら側だ。 “ここ”のこと、だろ? ここで死ぬはずがないって、言っているんだろ? だったら、いよいよ的外れだ。だって、オレは今にも死にそうじゃないか。 ウィルの現状を鑑みるならば、“もどき”の発言は根拠のない、結果的に誤り だと言えるだろう。何しろ、ウィリアム・バーグが二分後に生存している可能 性はないに等しい。ウィル本人すら、自分が生き延びる確率は無に近いと思う し、この危機を回避出来る予感もない。 それなのになぜ、期待を持たせるようなことを言う? 単なる口から出任せか ? 新手の嫌がらせか? 気を持たせといて、やっぱり、ダメよ、みたいな。 大体、この水の中から脱出出来るような、そんなありがたい逆転劇の可能性が あるか? そんなもん、一体、どこにあるって言うんだ? オレにはこの天井 だか、いっそ、床だかわからない、板一枚が通過出来ないのに。 そもそもなぜ、小生意気な頭はウィルには通過出来ない“天井のように見える 板”をすり抜け、向こう側に行けたのだろう? 普通なら、そんなこと、出来るわけがない。オレじゃなくとも、他の誰でも、 生き物なら、いや、どんな物質でも物質を通り抜けるなんてこと、出来ない。 だったら、オレの能力が欠けているんじゃなく、あっちの方がおかしいんだ。 あいつは本当に何から何までそっくり、異常なんだ。 ウィルはゆっくりと瞬く“もどき”を改めて、見つめてみた。口を開けば、 生意気この上ない。だが、変わった形状の分を差し引いてもやはり、この世の 者とは思えない独特の雰囲気を持った、十分に美しい顔だった。 普通じゃない、けどな。 当たり前に歩き、メスを持ち、パソコンに入力し、ウィルに笑い掛け、子守り 男に抱きつく生身のイツカとは全く異なるが、“もどき”には人間ではない者 としての、稀有なる美しさがある。それは彼独自の個性であり、存在価値でも あるのだろう。 でも、生き物じゃない。だから、板を通り抜けたり、水中にいて、何分経って も平気な顔をしていられる。そうだ。こいつは現実には存在しないんだ。生物 でもないし、物でもない、“何か”なんだ。平たく言うなら、こいつはオレの 妄想の、産物に過ぎないんだ。 ・ “もどき”は相変わらず、涼しい顔でウィルを見つめている。彼はウィルの 感情に対し、関心がないのではないか。両目は飽きもせず、ウィルを凝視して いる。それにも関わらず、ウィルの刻々と変わり行く、微妙な表情の変化には 反応らしい反応を示さなかった。つまり、彼はウィルの内面に対しては一切、 関心を持っていないのだろう。 その点、イツカは敏感だった。 ウィルの眉の動き、その小さな変化一つにもすぐに気付き、より一層の細かな 注意を払うイツカと“もどき”とでは例え、形は同じでも、まるで異なる別の 人格だ。 結局、こいつはオレの妄想の産物で、生き物と言えないし、どんな奴なのか、 推量したって、意味もないんだけど。 生意気な“もどき”の人格を測ってみる必要はないのかも知れない。しかし、 自分の死の現場に唯一、立ち会うそいつの正体を全く知らないのも、癪に触る と思う。だからこそ、ウィルは半ば、躍起になって、考えた。 ずっと、誰もいない所でこっそり死ぬのは嫌だと思っていた。だから、オレ、 こんなつまらない幻を見ているのかも知れない。 仕事柄、週に何体となく、不慮の死を遂げた変死体を見て来た。その中には 想像力を働かせてみるまでもなく、どう見ても一人、ここで力尽きたとわかる 死体もあった。 一人、道の端で果てるのは本当に侘しいだろう。死が免れられないものなら、 愛する家族に囲まれて、安らかに召されたい。それが叶わないなら、せめて、 一人きり死ぬのだけは勘弁して欲しい。そう考えていた。 そうだな。こんな奴でも、誰もいないよりはいいか。形だけは綺麗だし、な。 ウィルは人一人いない所で死ぬよりはましだと、自分に言い聞かせてみたが、 やはり、納得はしかねた。 だって、こいつ、オレに同情なんか、していない。ただ、オレが死ぬのを傍観 しているって言うか、見物しているって言うか。どちらかと言えば、暇潰しに 眺めているだけじゃないか。何の慰めにもなりゃしない。同じ顔でもイツカの 方なら、もっと慈愛を見せてくれただろうに。 ウィルは嘆息した。 ここにいるのがイツカなら。何でオレはこんな今際に感じの悪い、嫌な野郎と 遭遇しなきゃならなかったんだろう? 付き添ってくれるなら、断然、イツカ の方が良かった。大体、あいつはどこに消えたんだ? オレを置いて? 出来ることなら、ため息を吐きたい。だが、それも叶わない。 死刑囚だって、執行前には所望しさえすれば、一服出来るのに。 ・ もう、考える余力はなかった。脳に残った酸素は微量だ。だから、こんな幻 を見ているのだし、考えても、もう導き出される答えもないだろう。天井だと 思った透明な板の向こう側で、“イツカもどき”は笑っていた。 寝てもいないのに、こんな幻を見るなんて。死とは、永久に眠ることだって、 誰が言ったっけ? また、あいつ、アルバート先生か? ま、誰の口から出た ものでも、同じか。 でも、案外、本当のことなのかもな。オレがこんな忌々しい幻を見るのも、死 が近付いたからかもな。息は未だ、どうにかあるけど、でも、もうあちこち、 そこら辺中、死に始めている。だから、こんな夢を見ているんだ。 いい加減、諦めなくてはならない。“もどき”がどんな嫌がらせを言ったと しても、それは結局、ウィル自身が紡ぐ妄想だ。生き延びたいと願い、どこか に一片の可能性が残っているのではないかと欲張る己の心が“もどき”の口を 借りて言わせている、それだけの戯言なのだと、ウィルは考えた。 結局、自作自演なんだ。もう、可能性はない。諦めなくては。 頭で割り切ろうとしても、それでも尚、ウィルには懸案が残っていた。 |