もし、こんな人目のない、不可解な所で果てたなら、一体、誰が死体を発見 してくれるだろう? 発見されないことにはどこにも、“届けて”も貰えないんだぞ。 それが気掛かりで、ウィルの気持ちは止めどなく重くなる。この天井に支えた 身体が沈み始めるのはいつからだろう? そして、何時間後に再び、浮上し、 この天辺に支えることになるのか? 水脹れした死体って、酷い様なんだよな。 このまま、肉が腐り落ち、骨になることに今更、異存を唱えても、誰にも聞き 入れては貰えない。仕方がないと思いもする。しかし、それにしても、もし、 アリスやショーンの前に、梱包されて届けられる自分の死体があまりに無残な 物だったなら。目の当たりにする二人が気の毒だと、ウィルは気を揉むのだ。 届けて貰えないのは何より、本当、困るわけだけど。でもな。 『正味、馬鹿なんだな。そんな心配したって、意味がないのに』 ちっ。本当のことを言いやがって。 ウィルは薄れて、掠れてしまったが、未だに消滅しきれない意識下で精一杯、 考えてみる。水は満杯だ。冷たくはないが、それでも一立方センチメートル分 の空気もなく、水は満ちている。そして、そんな満水の中に人間が生息出来る はずがない。持ち時間を考えると、どう意地を張ってみても、ウィルの限界は とうに過ぎているような気がする。 未だ、生きている。でも、もう、息苦しささえ、感じない。死が怖くもない。 こんなに落ち着いた気分は初めてかも知れないくらいだ。 目は霞んでいるけど、でも、その代わりに幻は、嫌な奴の顔はしっかり見えて いるし。 案外、意識とは長持ちするものらしい。ウィルはボンヤリと考えてみる。今、 自分は貴重な体験をしているのではないか? ただ、残念なことにウィルには この体験を後世に伝える術がなかった。 違うか。死ぬ時には皆、こんな体験するけど、伝えられなかったってだけか。 “もどき”はウィルの心中を眺めていたように、鼻先で笑った。 『おまえは呑み込みが悪いな。そこでは死ねないと、親切に教えたのになぜ、 理解出来ないんだ? 鵜呑みにするほどの可愛げもないようだし、な』 そいつはオレがもう死んでいるって、そういう意味なんじゃないのか? 『違う。確かに死者はもう一度は死ねないが』 “イツカもどき”は薄く笑ったまま、天井の向こう側でこのまま、成り行きを 眺め続けるつもりのようだ。彼にはそこから動く気がなさそうだった。 『おまえは生きているよ、ウィリアム・バーグ』 そうかもな。だが、時間の問題だ。助かる余地なんかない。それなのになぜ、 おまえはここじゃ死ねないと言い張るんだ? そう言うなら、オレに妙な期待 を抱かせるなら、その根拠を言えよ。 “もどき”はあっさりと答えを返して来た。 『イツカが死なせないから、だよ』 イツカ? イツカ。彼はウィルの胸元で、息を止めてと呟いた。あの熱っぽい吐息混じり の一言をウィルは聞き取り、小首を傾げたはずだ。そして、次の瞬間、自分の 身に起こったことを、ウィルは躍起になって思い出そうとしていた。この期に 及んでパニックは起こし得ない。せっかくだ。この夢現の定まらない思考の中 でもせめて、自分の記憶くらいは正確に焼き直しておきたかった。 つまんない意地かも知れないけど。あの世とやらで事後整理するのは大変かも 知れないからな。別に始末書書くわけじゃないけど。 『おめでたいな、おまえ。死後、裁判にでもかけられるつもりでいるのか?』 小さく聞こえた、“イツカもどき”の悪態。 おまえだって、とんだ間抜けじゃないか? 首から下はどこにやったんだ? 出来損ないめ。 “もどき”は瞬いた。彼の表情に垣間見えたそれ。それはごく小さな、だが、 確かに不快な感情だったようだ。 『ないよ。生まれるまでは一応、あったけど』 その言葉の意味をウィルが考える間はなかった。“もどき”自身がふと、何か に気付いたように、自分の後方へと首を捻ったからだ。 何だ? つられて、ウィルもそちらを見やり、もう一人、誰かが近付いて来る気配を 感じ取った。 誰か、来る? なら、ここは自分の意志で出入り出来るような所なのか? 透明な天井板の上を歩いて来る、白い足。それが見えた時、ウィルは思わず、 息を呑んだ。あまりにも白く、美しいそれはあたかも靄が結集して、形創って いるようにさえ、見えた。足は“もどき”の間近まで歩み寄り、立ち止まると どうやら、“頭”を持ち上げたようだ。不意にウィルの視界から彼は消えた。 どうなっているんだ? 誰一人、ウィルの問いには答えなかった。ただ、次の瞬間、音もなく白い手が 透明な天井板を通り抜け、ウィルの目前に下ろされた。鼻先に現れた、白い、 しなやかな手。夢でも、願望でもない。女の手だった。 アリスのような。まるで、掴まれと言っているような。 もし、この白い、美しい手によって導かれるのなら、当然、その結末が生で あれば、より良いが、例え、死が待ち受けていても本望だ。ウィルはそう腹を 括り、最期の力を振り絞った。ウィルは右手を伸ばした。白い手を、淡い珊瑚 色の血色が透けて見える、神々しい手を掴もうとした。 届くか? 手は自ら、ウィルの手を握った。細長く、だが、決して、飾り物ではない右手 は温かく、まるでウィルを励ますように、ここまで一人きり、頑張った奮闘を 称えるように、ぎゅっと力を込めてくれた。 オレは、助かるのか? “大丈夫。そこで死ぬはずはないわ。だって、そこでは死にようがないのよ、 ウィリアム・バーグ。” ウィルは瞬いた。その声は誰なのか? ウィルの疑問に答える者はなかった。 しかし、ウィルの身体は信じ難い力で、一息に引き上げられていた。 |