back

menu

next

 

 なぜ、署内にいた自分が不可解な水中へと転じることになったのか、ウィル
には皆目、見当もつかなかった。何の前触れもなかった。いや、来ようなどと
思い付くはずもない。世界のどこかにこんな場所があると、夢想する想像力の
持ち合わせもなかったし、ここへ来る必然性はなかった。思い起こしてみると
突然、スイッチが入ったようにウィルの記憶は再開されていた。不可解な水中
で目覚め、再び、始まった記憶はそれまで署内にいた当時のものとは断じて、
一続きではなかった。まるで朝方、目覚めるように突然、考えることが出来る
ようになったのであり、その直前までは気でも失っていたのか、一切、記憶に
なかった。つまり、いくら考えてみても、自分がここへ、こんなふざけた水中
へ移って来ることになった理由も移動手段も記憶になく、当然、考えたところ
でわかるはずもなかった。
一旦、記憶したけど、ころっと忘れてたってゆーのなら、頭叩きゃ、思い出す
かも知れないけど、身に覚えのない、つまり、記憶したって実績のないことは
思い出しようがない。それをあれこれ、想像しても仕方ないじゃないか。
 ウィルはここまで来た“経緯”や、“移動手段”という、思い出せそうにも
ないことにはさっさと見切りをつけて、自分が今も体験し続けている、確かな
部分、即ち、目覚めてからこちらのことを考え始めた。
 目覚めた瞬間、ウィルの鼻先を気泡が立ち昇って行った。ゴボッという音を
聞いた一瞬からウィルの、この不可解な水中での記憶は始まったのだ。不可解
な水中はやたらに明るかった。
こんな照明、どこのプールだって、不必要だ。電力の無駄遣いだって、文句の
一つも言いたくなるくらいだ。
光源は見当たらない。それらしい設備は影も見えない。しかし、その明るさは
大層な出資が為された結果なのではないかと、考えてみる。何しろ、明るい。
陰など、ない。一つのしみすら、生じそうにもないほどだ。
尋常じゃないくらい、明るい。
そして、その明るさは無邪気だった。いっそ、間近に小さな太陽の一つや二つ
くらい、仕込んであるのではないかと邪推してみたくなるほど、水中には満遍
なく、燦々と強い陽光が差し込み、眩しいほどに明るかった。
建設現場のスポットライト程度じゃ、一万個あったって、間に合わないって、
感じの。
 南の島を連想させる、温かな青い水。その水が一センチ角分の隙間もなく、
みっちりと詰まった水の世界。目覚めてみると、そこに閉じ込められていた。
そうだ。まるで樹脂に閉じ込められた虫みたいな心地だ。まさか、このまま、
化石にはならないだろうけど。
化石。その単語一つからふと、ウィルは小さな塊を一心に覗き込む、未だ若い
妻の横顔を瞼に再生していた。
『かわいそうに、逃げ切れなかったのよ』
彼女の掌中に収まった琥珀。中には小さな虫がいた。ヤニが固まる前に脱出は
叶わなかったのだろう。
オレも、このまま、時間切れになったら、ああなるのかな。だったらいっそ、
琥珀になれたらいい。そうしたら、アリスは喜ぶのかな。無理か、オレ、今で
も彼女の夫だし、な。腐乱死体よりは、ずっとマシだろうけど。
ウィルは若い日々を思い出していた。自分のそれは思い出せないが、妻の横顔
なら、くっきりと目に鮮やかに描くことが出来る。
本当に化石好きだったよな、彼女は。学生時代は金槌持って、嬉しそうに近所
の山に通っていた。“時間を採取するんだ”って、言っていたっけ。
人はなぜ、愚にもつかない考え事をするのだろう? それも肝腎な時を選び、
結構、心を弾ませ、いそいそと。ウィルは新たな疑問を抱いたが、自分が先に
考えていた作業を中断することはしなかった。優先順序は明確だ。この水中で
抱いた疑問は出来るなら、ここで解いておきたい。夢から覚めた後、どうして
もその内容が思い出せないことは度々、ある。同様にこの不可解な水の中から
救出された後、ここでの体験を忘れ、二度と思い出せない可能性は極めて高い
だろうと考えた。
ここはおかしい。そう、おかしい。あれも、これも全部、おかしいけど。特に
“時間”がおかしい。だって、オレ、とうの昔に溺死しているはずだ。なのに
未だ、生きている。
ウィルが未だ、生きて、いる、世界。
ここは、この水の中は見たこともないくらい、明るい。
 しかし、そこに自由はなかった。少なくとも、ウィルにとっては不自由な、
思うに任せない、厄介な世界だ。水に足を取られることはなかったが、思うが
まま、泳ぐことは出来ない。身体のコントロール自体は出来たが、自分の進む
コースを決めるのはウィルではなかった。
迷路みたいだったから。
白い壁。それには上限だとか、下限、つまり、ここまでだという、普通の壁に
は四ヶ所、間違いなくある“切り”がなかった。視界は極めて良好だが、それ
でも壁の切り、ここで終わりだという、一線は見えなかった。そんな巨大な壁
がまるで蛇が身をくねらせるように、水中を縦横無尽に這い回っていて、どこ
までもウィルの進行を阻んだ。角を曲がっても、また曲がってもそこには白い
壁が立ち塞がり、仕方なくウィルは唯一、幾分かは自由に進むことが出来る上
へと泳ぐしかなかった。
オレはちゃんと、大真面目に泳いだ。それなのにとうとう、辿り着けなかった
んだ、水面ってゴールには。
両肺が蓄えた酸素を無駄に使わないよう、だが、時間切れにはならないよう、
懸命に水をかき、やっと、“行き着く先”に辿り着いた。
着いたって言うか、もうダウン寸前でのびていたら、行き着いたってだけなん
だけど。 

 

back

menu

next