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 ウィルは“行き着く先”とは即ち、水面だと思っていた。どんな深いプール
にも必ず、水面がある。そして、その上には吸い切れないほどの、大量の酸素
が待っているはずだ。上に向かって泳ぎ続ければ、水上に届く。それは不変の
真理であり、それ以外の例などないと、ずっと信じていた。
だけど、オレを待ち構えていたのは“板”だった。
ウィルの浮上を阻むべく待ち構えていた、透明な板。それが天井板なのか、床
板なのか、正直、ウィルには判別出来なかった。ただ、それは厳然として存在
していた。ウィルが目覚めて以来、必死で泳いでいた水中と、ひょっこり姿を
現した“頭”が身軽に侵出したもう一つの水中との間を隔てた、その板は薄い
が、それでも十分に頑丈な代物であり、ウィルが死力を尽くし、必死になって
押し上げようと試みても、ものの数秒で諦めがつくほど、強硬だった。
どうにもならなかった。動かすことも、割ることも出来なかった。
当然、生身のウィルには他に、板の向こうに見える、もう一つあるらしい世界
に進む手段はなかった。
マンガとか、アニメなら、ここ一発って技で通り抜けられるけど、そんなの、
現実じゃ無理だからな。“あいつ”は通り抜けて行ったわけだけど。
 透明な板を“もどき”が易々と通過出来たのも、彼が“幻”だからだ。実体
がないからこそ、“もどき”には通過することが出来た。然るにこんな重い、
確定した物質としての身体を持つウィルにそれを通り抜けることが可能だろう
か? 人はなぜ、愚にもつかない考えごとをするのだろう? それも肝腎な時
を選び、結構、心を弾ませ、いそいそと。ウィルはその答えを知っている。
もっと他に、考えてみたくもない疑問があるからさ。逃避なんだよ、結局は。
 窮地のウィルに差し伸べられた白く、美しい手。珊瑚色の爪が並んだその手
はウィルにとって、まさに救いの手だった。
まるで女神の手だ。完璧だった。
その美しさに感嘆し、だが、ウィルはそれが極めて美しいが故に、また疑って
みなければならなかった。
これは実物なんだろうか? まさか、これも、この手までも幻なのか? あの
小生意気な頭みたいに、オレが勝手に創り出して見ている、幻影なんじゃない
のか?
それにもし、その神々しいばかりの美しい右手の助太刀を得たとしても、物質
である自分に“板”を通過するなどという、離れ業が可能だろうか?
出来るわけがないじゃないか。
 これも、また結局、悪い夢なのだろうか? もし、“右手”によって、すぐ
そこに迫った“板”を通過させて貰ったとしても、先にはまた新たな水中が、
悪夢の続きが口を開けて、待っているだけなのではないか?
もしかして、オレ、もう死んでいて、それなのに未だ、生きているつもりで、
死にたくないともがく、悪夢を見続けているような、そんな地獄にいるんじゃ
ないよな?
恐れから、せめて、ぎゅっと目を閉じ、その一瞬に備えた。
 衝撃は感じなかった。いや、身体のどこかが、“板”に触れた覚えもない。
ガバッと勢い良く、水中から何かが跳ね上がるような、そんな水音が聞こえた
だけだ。
ぷ、はっ。
オレ、か? オレの息遣いか?
水中から頭を出したのはウィル自身だった。それまでいたはずの、あの無邪気
な、恐ろしいような明るさとは対照的に、そこは暗かった。
真っ暗だ。何も見えない。
目が慣れないためか、ウィルは一瞬、何も見えなくなった。そこに人の気配は
感じられない。轟々と流れる水音が間近に聞こえるだけだった。
「どこだ? 誰か、誰か、いないのか?」
ここがどこであっても、少なくとももう“一人”、いる。ウィルを引き上げて
くれた白い手を持つ、“彼女”がいるはずだ。
「いるんだろ? 返事してくれ。未だ、目が慣れなくて、何も見えないんだ」
暗がりに向かって叫ぶ、ウィルの声は水音にかき消されそうだが、それでも、
自分で聞き取ることが出来た。
帰って来たんだ。ちゃんと音が聞こえる、ごく普通の、現実の世界に。
 ウィルはようやく常識が通じる、本来の世界に復帰出来たらしい。しかし、
残念ながら、目が慣れるまでは冷え冷えとした空気を、皿に食いつく捨て犬の
ようにガツガツとむさぼり、干乾びた肺へ、身体中へと酸素を送り込んでやる
作業に専心するしかなかった。何も見えないが、周囲には流れる水音があり、
ひんやりとした空気がある。僅かばかり、空気の流れもある。そして、どこか
土臭いと鼻が嗅ぎ取った。
地下、なのかな?
精一杯、状況を把握しようと努めながら、ウィルは自分の目が機能を取り戻す
のを、そして、いるはずの彼女が口を開くのを待ってみる。しかし、聞こえる
のは相変わらず、流れる水音ばかりだった。
いい加減、おかしくないか? 何で彼女、黙っているんだ?
一般にもし、人が誰か、他人を救助したなら、その相手の様子を確認すべく、
一言、先ずは声を掛けるのが人情なのではないか? 
なのに、なぜ、彼女は黙ったままで、近付いても来ないんだ?
ウィルは自分の近くにいるはずの、命の恩人を捜すべく、辺りへ、所構わず、
両手を伸ばして、宙をまさぐってみた。どこかに彼女の身体を見つけることが
出来るのではないか、そんな期待を込め、しばらく続けてみたが、ウィルの手
は何にも触れることが出来なかった。
「誰か? 誰かいないのか? おい」
「おかえり、ウィル。慌てなくても、もう、大丈夫だよ」
ウィルはゆっくりと首を傾げ、声の方へと身体を捻る。真っ暗だと思ったその
空間にイツカは淡く、青白く輝いて、浮かび上がって見えた。
「イツカ?」

 

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