ウィルは考える。不可解な水中での体験は全て、酸欠故だと割り切れなくは ない。 若干、割り切れないものも残るけど、あの時は夢現だった。理屈なんか、通用 しない、酸欠の世界にいたんだ。辻褄が合わなくたって、妄想に囚われていた からだって認めてしまえば、それで済む。 しかし、溺死寸前の状態でなら、いざ知らず、必要量の酸素を得た今、なぜ、 自分が幻を見るだろう? 正常なオレが幻を見るはずがない。薬もやっていない。全くの正気。見間違い なんか、するはずがない。間違いなくこいつはさっき、発光していた。あっと 言う間に消えたけど。 なぜだ? ここは現実だ。現実でだけは事実か、否かをあやふやにすることは出来ない。 だって、オレ自身が正気か、否かを問われている。生きる資格を問われている のと実質、同義なんだからな。 人間の身体が発光すること自体が通常、あり得ない。だが、ウィルにはその 淡い輝きが数秒足らずの間に消え失せた事実の方が、はるかに面妖で、釈然と しなかった。 電気じゃないんだ。点けたり、消したりするのだって、難しいんじゃないか。 怪訝そうなウィルの様子を見て、イツカも不思議そうに小首を傾げた。いかに も不思議そうな、やや子供じみた仕草だ。ウィルにはとうに見慣れた、イツカ らしい動きだった。その様子から察するまでもなく、子供の頃のイツカは相当 に可愛らしかったことだろう。 今でも歳のわりには。まぁ、性格だな。形だけ良くとも、性悪“もどき”には 真似出来ない。大体、あいつじゃ、頭全体が傾くだけで、異様だからな。 「どうしたの? 気分でも悪い?」 「いや、大したことはない。もう、落ち着いた」 確かに呼吸は持ち直した。目も暗がりに慣れたのか、辺りの様子も見えるよう になった。何より、間近に来たイツカの顔がはっきりと美しいまま、見える。 それがありがたかった。身体は疲労していると感じるが、それでも命の危険は 感じない。多少、休めば、さっさと帰宅し、明日は出勤も可能だろう。 ここがどこか、わからない内は、言明は出来ないのかも知れないが。 ウィルはようやく役目を果たし始めた目で辺りの様子を再度、伺ってみる。 そこはかなり薄暗く、必要最小限の照明しか、設置されていないようだ。それ でも、見える限りに“水面”が広がり、その周りを高い壁が取り囲んでいると わかる。 ただそれだけ。この馬鹿でかいプールみたいなのは一体、何だ? プールじゃ ないな。飾り気もないし、暗過ぎる。それにいくら何でも、でか過ぎる。 非常用の貯水池みたいな物か? だが、それにしては高い天井だ。貯水池には こんな高い天井はいらない。じゃ、あれか。雨水を流し込む、何と言うんだ? 洪水防止用の施設か? それとも何らかの研究機関の装置かな? 水流の実験 とか、そういうのならおかしくないか。 キョロキョロと周囲を見回し、考えごとに没頭するウィルにイツカは不安そう な調子で、尋ねて来た。 「ね、ウィル。君、ケガなんて、していないよね?」 「ああ、少し、ぼおっとするって、程度だ。酸欠状態が長かったからな」 「大したことないのなら、良かった」 イツカは安堵の息を吐いた。その様子は幼げにすら見えるが、やはり、ウィル には不可解が先に立つ。その疑問を解消しなくては到底、気が済まなかった。 「な、おまえ」 「何?」 「おまえ、今、と言うか、ついさっき、光っていなかったか?」 「光る?」 「そう。ボーッと、薄く、青白く、さ」 イツカは笑っただけだった。仕方なさそうに微笑んだイツカは、ウィルより、 幾つも年下だが、その笑みのせいか、ずっと年上にも見えた。 「何だ? 何がおかしいんだ?」 「だって、ウィルがおかしなことを言うから」 「おかしい?」 「人間は発光しないよ。虫とか、キノコとか、そういうのじゃないんだから、 無理だ。あり得ないでしょ?」 正論だ。それは理解出来るが、ウィルは釈然としなかった。 「でも、確かにおまえは発光していた」 「気のせいなんじゃないの?」 「寝起きでもないのに、寝惚けられるほど、オレは器用じゃない」 「いつも呆け気味じゃないか。ま、それを差し引いても。あいにく僕もキノコ でもないのに、発光出来るほどは器用じゃないよ」 「そりゃ、そうだろうけど」 「まさか、このやり取り、また三十回くらい、続けるつもりなの?」 「いや、そこまで不毛なことは」 イツカのピカピカと奥底から光る目にまともに見据えられ、ウィルはそれ以上 の追求が出来なかった。確かに自分の方が馬鹿げたことを口走っていると自覚 はある。 「それより、早く着替えよう。びしょ濡れのままじゃ、気持ち悪いよ」 ウィルは瞬いた。聞きたいことは山のようにあるが、先ず、確認したいことが あったではないか。 「イツカ」 「何?」 「ここは、どこだ?」 イツカは一瞬、間の悪そうな、不可思議な戸惑いを見せた。何か、答え難い ようなことを尋ねただろうか? 訊ねたウィルまで戸惑うほど、イツカは強い 困惑を見せた。 「何で、おまえがまごつくんだ? 答え難いことなのか? おまえにも、この 場所がわからないのか?」 「答えは知っている。でも、それを答えたらその後の、君の質問攻めにきっと 困るんだろうなと思って」 「どういう意味だ?」 「出来るなら、一つも答えたくないけど、そうもいかないよね」 イツカはプールのような水槽から這い出したきり、へたり込んでいるウィルの 傍らに屈み、光のない水面を見据えた。 「答えろ。ここはどこだ?」 急かすウィルに、イツカの返した答えは簡潔だった。 「僕の家だよ」 「家? あの地下の?」 「そう。君が知っているあのアパートの下の階。上にも、下にも行くなって、 言ったよね。ここはその“下”の階。向こうのドアを開けて、階段を上れば、 いつもの家。フォレスが待っている、僕の家だ。窓はないけどね」 |