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 ウィルにはわからなかった。ウィルの要求に応じて、イツカが返してくれた
答え。それは到底、ウィルには鵜呑みに出来ない代物だった。
“僕”のアパート? あのアパート、だって?
ウィルの背筋を天井から滴った水滴が一粒、冷や汗のように滑り落ちた。ある
地点にいた人間が次の瞬間、遠く離れた別の地点に移動している、そんなこと
が起こり得るだろうか? 
歩きもせず、車にも乗らず、だ。大体、そこに行きたいと望まないで、行ける
所なんか、あるのか。望まなくとも行ける場所なんて、あの世くらいしかない
じゃないか。
そんなことがあるのか、ないのか。考えてみるまでもなく、どんな世界でも、
到底、有り得ないことだ。
地球そのものは一つだけど、いろんな世界がある。貧富の差とか、人種の差と
か、文化の差みたいな。人の世界にはいろんな差と言うか、違いがある。その
違いが層になって、一つの地球を作っているわけだけど、それだって、結局、
表層に過ぎない。突き詰めるなら人は誰でも一皮、剥いてしまえば、何の差も
ない。出来ることも、出来ないことも同じようなものだ。偶に百年生きる者も
いれば、三日で死ぬ者もいるけど、誰一人、千年は生きられない。結果的には
ほぼ同じってことじゃないか。
つまり、あの警察署から一息にこの場所へ移って来るなんて、出来っこない。
オレの頭に問題があるわけじゃない。想像力とか、理解力とか、特別、豊かな
方とは言い難いけど、今、オレにイツカの返事が納得出来ないのは致し方ない
ことだろ? だって、あり得ない。そんなマンガみたいなこと、起こり得ない
じゃないか。当然、誰かに実現出来ることじゃない。マンガのキャラでもない
限りは。
 子供だった時期。ウィルにとってはえらく遠ざかった、遠い昔であり、滅多
に思い出すこともない、古い記憶。
それになぜか、オレは昔のことはあんまり覚えていない。
原因は不明だったが、ウィルには赤茶けた田舎町での幼年期の記憶が欠落して
いる。それでも何の弾みか、この頃は所々、思い出すことが出来た。その曖昧
な記憶を探ってみると、確かにウィルにも、母親に毎度、目が腐ると叱られる
ほど熱心にマンガを読んでいた一時期があった。
皆で熱心に回し読みしていた。たぶん、凄い冊数、持っている奴がいた。そう
だ。そいつんちは兄さんが残念な“本物”で家中、マンガだらけだったから、
オレ達は皆、そこに行けば、読み放題だったんだ。
夢中でマンガを読んでいた時期がある。それ自体は事実だが、あくまでも子供
の暇潰しの範疇であり、他に特段の理屈はなかった。
ありきたりの暇潰しだった。何しろ、風が強くって、娯楽なんか、一つもない
偏屈な町だったからな。マンガ読んで、ゲラゲラ笑うのが唯一の暇潰しだった
んだ。
ほとんどの子供が同時期に通り過ぎる道を、ウィルもただ、通り抜けた。それ
だけの話なのだ。
ま、当時は本当に熱心に読んでいたけども。
しかし、ウィルも、友人達も紙に描かれた世界に憧れていたわけではないし、
まして、今、住んでいる現実の世界が“劇中に描かれた世界”と入れ替われば
良いなどと夢見たことも、願ったこともなかった。
ジャンクフードみたいな物だ。母さんが作ってくれた料理みたいに、栄養には
ならないけど、毎日の楽しみだった。
小さな、乾いた田舎町に生まれた、退屈しきった子供達にそれらは一時の幻想
を見せ、退屈しのぎをさせてくれたに過ぎない。
だって、誰も、人生を左右されるような、そこまでの影響は受けなかった。
ウィル達は誰一人として、登場人物のような“殺人鬼”にはならなかったし、
むろん、大した“ヒーロー”にも化けなかった。皆、一様にごく普通の大人に
なり、親となり、我が子とマンガの付き合い方に気をもむ毎日を送っている。
ウィルとて、一粒種のショーンがもう少しだけ成長し、テレビアニメやゲーム
に夢中になれば、母親に言われた通り、目が腐るからと根拠の乏しい脅し文句
でストップをかけることになるのだろう。
小学校に入ったら、数年後に卒業するのと同じことだよな。そこで学んだこと
なんて、大人になっちまったら、何の意味もないようなもんだけど、皆で一緒
につまらないことをやったって事実が、そっちがとっても大事なんだ。まぁ、
学校は嘘と幻想は教えないだろうが。
ふと、ウィルは妻の横顔を思い出した。
意外にアリスも詳しかったな。遠く離れた、別々の町で育ったのに同じ番組を
見ていて。それがわかると、結構、嬉しかった。
 ウィルは無邪気にテレビを見ながら笑い声を上げるアリスを思い出し、目を
細めた。端整で、近寄り難いような美貌の持ち主である彼女が真面目な顔で、
『でも、時々、変身してみたいわよね』と言った驚きは生涯、忘れられそうに
ない。
可愛らしいところがあるんだなって、感激したから、良く覚えている。でも、
マンガって、全部が全部、絵空事ってわけでもなかったんだな。そりゃ、そう
か。あんなの、人の願望の結晶みたいなもんだからな。科学者だって、大衆の
要求に合わせて研究するんだから、結局、マンガの世界を実現するような結果
になるんだろうな。

 

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