back

menu

next

 

 解せない。ウィルは思わず、呟いた。必要最小限の薄明かりが照らし出す、
満々と湛えられた水。その使用方法がウィルには解しかねた。例え、並外れた
資産家なのだとしても、なぜ、一般の民家に、こうまで大量の水を蓄えて置く
必要があるのか、ウィルには想像もつかないことだ。
金持ちの考えることはわからない。維持管理には相当、金がかかるだろうに。
大体、この天井は高過ぎだ。まるで体育館じゃないか。いらないだろ、こんな
高い、それも丸い天井は。
だが、ウィルにとって、わからないのはこの水の貯蔵目的だけではない。思い
返せば、“今日”と言うたった一日に起きた出来事は押し並べて、ことごとく
不可解なことばかりだった。
だって、脈絡がないにも、程がある。
 言うまでもないことだが、人間は生きている間中、肝腎なことの大抵を選ぶ
ことが出来ない。人間が好きに選べることと言えば、せいぜいがどこの大学に
行くとか、誰と結婚をするとか、その程度のことまでに過ぎない。
その程度だよな。もちろん、どれも人生を決定付ける重要な要因だし、何かを
選ぶためにはある程度の努力も、運もないといけない。そうじゃないと、何か
を選ぶなんて、そんなありがたい資格は得られない。
だが、それでも究極、人間は何も選べないに等しい。いつ、どこで、どんな姿
で、どんな環境の下、生まれるのか、そして、やがてどこで、死ぬのかなど、
どれ一つ、選べないのだから。それらは人間自身にはほとんど選択が出来ず、
当然、それらに関して、人間は何ら、決定権を持ち合わせていない。
それだけは公正だ。抜け駆けは出来ない。どんなに努力していたって、どんな
に優れることが出来たって、不可抗力とやらの犠牲にいつ、なるのかは誰にも
わからない。
ウィルは署の地下、あの“大型冷蔵庫”の片隅に新入りとして加えられ、保管
された“彼”を思い浮かべていた。思うに任せない人生。“彼”の人生はその
際たるものかも知れない。
将来、有望もいいところだった。ずっと努力して、勉強して、奢ることなく、
務め上げて来て、だ。やっと、華やかな世界に踊り出るところだったんだ。何
の努力もしないで、お坊ちゃんとして遊んでいたわけじゃないし、傲慢な言動
で人を傷つけることもしなかった。そんな健気な若者の前途が突然、ぶっつり
と、知りもしない他人、それも人殺しで楽しみを得るような奴の私欲のために
絶たれるなんて、あまりにも気の毒じゃないか?
 非ある者の、報いとしての死と、非なき者の、謂れのない死。二種類の死者
達の行き着く先は、同じなのだろうか?
帰ったら、シャロームにでも、聞いてみるか。
ウィルは自嘲を込め、苦笑する。自身を顧みても、得るものはない。どんなに
達者な書き手でも、ウィルの人生を題材にしては、面白い小説は書けないし、
どんな嘘吐きでも、ウィリアム・バーグを後世、偉人として仕立て上げること
は出来ないだろう。
何しろ、オレは平凡だ。特別な部分なんて、何一つ、ない。
そんなことは百も承知しているし、それを踏まえて生きていることこそ、己の
美点だと、ウィルは解釈している。
オレはささやかな努力と、健康体に生まれたって幸運だけで、今日まで生きて
来た。あの程度の努力じゃ、些少と言われても仕方ないけど、でも、それでも
オレにとっては精一杯の努力をした。その積み重ねて来た結果がオレの、この
人生なんだ。
人間には自力でどうにか出来ることと、出来ないことがあり、その結果として
自らの進む未来として予期出来ることと、出来ないこととが生じる。
両者がバランス良く混在しているのが、きっと楽しい人生なんだろう。
しかし、どの道、人生に大差は生じない。無論、偶にはドラマチックな人生を
歩む者もいるが、それはごく少数派だ。悪い時代に生まれ、革命家になるか、
王家に生まれ、王になるか、並みの家庭に生まれ、映画俳優になるか、そんな
程度だろう。圧倒的大多数の人間はいつ、どこで生まれようが、どう生きよう
が、死のうが、他の人間には一切、関係なく、影響を及ぼすことはない。名前
どころか、存在自体、知られることもない。
結局、“いない”のと同じなんだ。
 ウィルは息を吐いた。物事はあんまり突き詰めて考えると、早死にするよ。
確か、田舎の祖母さんが、そんなことを言っていたな。
そう考えると、苦笑せざるを得なかった。
心配いらないよ、祖母さん。家は皆、あんたに似て、能天気だった。考え事に
夢中になるのはただ、その時、暇だからだ。目先の用事を思い出したら、すぐ
に考え事していたこと、そのものを忘れっちまうよ。
しかし、ウィルは今日ばかりは、とことん考えてみなくてはならない。
だって、祖母さん。今日、オレの周りで起きたことはどれも、これも、本当に
おかしなことばかりだった。夢みたいなことばっかりだったんだ。だったら、
覚えている間に全部、思い出さないと、後々、後悔するんだろ?
 遠い思い出の中に住む祖母の姿をいつまで、それなりの状態で保持出来るの
か、ウィルにはいささか心許ない。
でも、もう、忘れたって、祖母さん、腹は立てないだろうな。だって、古い話
だぜ、いい加減。
風の吹き荒ぶ、乾いた田舎町。そこでの思い出はいつも頼りなく、それでも、
しっかりとウィルの足元にでもまとわりついて、こんな遠い街にまで、ついて
来ていたようだ。すっかり忘れていたつもりでいて、しっかりとどこかに持ち
歩いていたらしい。
祖母さん。子供時代のことは、今日はこの辺でやめとくよ。だって、どうして
忘れていたのかもわからないことをこの頃、思い出し始めた理由なんて、オレ
にわかるはずがない。そんなこと、ここで考え込んだって、それこそ、仕方が
ないだろう。
 銀髪の祖母の残像に別れを告げ、ウィルは再び、考える。今は多少、当てに
ならない代物と言えども、唯一の手掛かりである、自らの記憶を手繰り寄せる
以外に術はない。ウィルは懸命に全ての持てる心血を注いでみた。実際、そう
でもしなければ、到底、解明の糸口を見つけ出すなど、出来そうになかった。
一日の出来事は寝る前に全部、思い出して、反省して、明日はこうするって、
目標を決めて、それから眠れって、アンダーソン先生も言っていたからな。

 

back

menu

next