ウィルは銀髪の祖母を思い出す。彼女とシャロームの形はよく似ていた。 人の顔はどこかが必ず、家族に似ている。肉親の顔を少しずつ、どこかしらを 重ね合わせて形作られているんだから、家族に、愛しい誰かに必ず、似ている もんだ。 だからこそ、人は鏡を覗きたがる。 別に髪型を確かめるためにだけ、家のあちこちに鏡を置くわけじゃない。 『悲しい時、わたしは鏡を見るの』 不意に、アリスの言葉が耳に甦った。 『鏡を見るとね、いつまでもしょげていられないと思うの。だって、わたしに はあなたがいる。ショーンもいる。情けない泣き顔なんかであなたやショーン を悲しめるわけにはいかないし、そんなことをしたくないから、鏡を見るの。 そうすれば、すぐに泣き止むわ。でも、それって、とても不思議な現象よね。 ああ、わたしが泣いているって、まるで他人事みたいに思うだけなのに、泣き 止むだなんて。そういうふうにプログラミングされているのかしら、神様に』 アリスが最後に、独り言のように呟いた言葉の、特にその単語を用いた真意は ウィルには今もわからない。何らかの意図があっての言葉だったのか、それと も単なる言葉の文だったのか。 だが。 アリスも悲しいと感じる。彼女の心にも、誰のものとも同じ痛点がある。それ を今、思い出したことにだけ、意味があると思えた。 もしかしたら、オレが臆病で、卑屈になっていて、一方的に背を向けて。何も 見ていなかっただけなのかも知れない。オレさえ、彼女の方に向き直っていた ら。そうしたら、もしかしたら、オレ達は。 ウィルは妻の剥き出しの“感情”を見たことが只の、一度しかなかった。 あの雨の夜。 あの夜、アリスがなぜ、激昂し、誰に向かって声高に叫んでいたのか、それが わからぬまま、今日まで来た。 “わたしには非はない”、みたいなことを叫んでいたような気がするが。 アリスは常に自分の感情を自分一人で始末し、家族の前でもひたすら、朗らか な、完成された人間で居続けた。 並々ならぬ、凄い努力を続けていたんだろうな。いや、オレがそうさせていた んだ。こんな卑屈で、拗ねてばかりいる男には相談出来なかったんだろうな。 でも、だったら。もし、オレさえ、一言、二言でも切り出せていたら。今後の 話はスムーズなんじゃないのか? 今、考えることじゃないが、、、。 ウィルは瞬いた。あの不可解な水中を出て、尚、自分は妙なことばかりを脈絡 もなく、考えている。一見、それはどうでもよいことばかりのようで、だが、 ウィルにはどれ一つも、ポイと意識の外に放り出すことが出来ないものばかり だった。 特に、“鏡がないこと”は気にかかる。だって、誰だって、鏡を見る。毎日、 何度も覗き込まずにはいられないものだ。写真を飾り、鏡を覗く。単純な行為 だけど、精神の安定のためには絶対、欠かすことの出来ないルーティーンだ。 それなのに、それが両方とも、一枚もないっていうのは重大な“差”じゃない か。人なら、両方いらないなんてことは考えられないぞ、普通。 イツカの御立派な自宅には鏡がなかった。鏡の代わりにその定位置に、静物 画が一枚、飾られた洗面台を前にたじろぐウィルを見つけ、フォレスがそっと “隠されていた”鏡を引き出してくれたことがある。その時、彼はこう言った のだ。 『使い終わったら、速やかにしまっておいてくれ。出しっぱなしは困るんだ』 フォレスは確かに几帳面だ。キッチンのタイルの目地に集中する彼の横顔には 職務意識を越えるほどの熱意を感じたこともある。だが、それは彼の資質だけ がその所以なのだろうか? ウィルは時々、思うのだ。あれは彼の性格が理由 なのではなく、彼の雇い主の性質が大きく影響しているのではないか。ウィル はもう一度、イツカを見据えてみた。彼には常に子守りがついている。だが、 その事実とイツカの内面のレベルは必ずしも、合致していないのではないか。 子供扱いされていると言えるが、非常に気を遣われているとも言えるはずだ。 本人の意思とは思い難いが、イツカは事実上、大量の薬物を摂取する生活を 続けている。時々、彼の頭は眠りを貪る方に走ってしまうし、情緒は不安定と なった。だが、その大きなマイナス分を忘れずとも、イツカの価値はゼロには なり得ない。 だって、こいつは有能だ。仕事は誰よりも出来る。到底、子供とは思えない。 おまけに正気で、気の立っているクレメンツの真ん前に立って、言い返せるん だから、半端じゃない勝気ぶりだ。普通、あの強面大男にはびびるはずだぜ。 どんな人間なんだろう? 本当はどんな人間なのだろう? ウィルには自分が 見据えた先にある、イツカの後頭部、その中身が何よりわからなかった。 |