back

menu

next

 

 どうして、あの水中に落ち込むことになったのか、未だ、全くわからない。
だが、そこから這い出て来たからこそ、今、ウィルはここにいる。当然、目の
前の、この大量の水こそがあの“水中”であるはずだ。
だけど、一致しない。特徴が合致しないじゃないか?
もしかしたら、不可解な青い水中での体験は全て、酸欠の頭が見た幻なのでは
ないか?
今となっては全部、妄想だったと思う方が楽は楽だけど。
あの体験の全てを事実と信じ続けることは、容易ではなかった。どうして自分
があの水中でもがくはめに陥ったのか、皆目わからない以上、そこで見聞いた
全てを幻だと信じ込む方がよほど簡単な作業ではあった。
もしかしたら、オレを引き上げてくれたあの美しい手すらも、オレの希望的な
妄想であって、実際はじたばたしている間に岸に辿り着いていたってだけなの
かも知れない。でも、オレは諦めない。
結局、どれほど願っても、真実を確認することは叶わぬ夢なのかも知れない。
だが、それでもウィルは全てを取り戻したい。そう願うからこそ、先ず、足元
の小ぶりな、栗色の髪に包まれた頭の中身を知りたいと思うのだ。
きっと、こいつはオレより、事態を呑み込めている。だって、こいつにはちっ
とも慌てた様子がないじゃないか。
 ウィルは予備知識は必要ないと考えた。署長が肝腎と思う、イツカの土壌、
つまりはイツカの祖父や父親の功績なり、資産なりをイツカ自身を判別する、
その材料に含めるつもりは毛頭なかった。
当然、おしゃれな服も、それ以上に上手いこと出来た顔も、人格には無関係と
思わなきゃ。
鑑みるべきはその仕事ぶりであり、身の回りの処し方だ。
服だって、値段を見るんじゃなくて。着方の方が判断材料になる。シャローム
が言っていたじゃないか? アイロンをかける必要があるシャツをしわだらけ
のまま着るような人間は信用出来ないって。
ウィルは先ず、イツカの仕事ぶりから考えてみる。彼の仕事は芳しく、誰しも
非の付け所がないと、高く評価するだろう。
作業は手際が良いし、検案書とか、書類の類いも、完璧だった。
続いて、考察を加えてみるべきポイントと言えば、その作業場だろうが、そこ
にもまた、一点の曇りもなかった。
シャロームもビックリってくらい、綺麗にしていた。
イツカの使う所はどこも、完璧に整えられていた。作業室も、そこに隣り合う
デスクを備えた小部屋もささやかだが、それで十分と思われる応接室も、皆、
簡素に、だが、しっかりと整えられていた。
使っている人間の知能が丸見えになっているような、完璧ぶりだった。
しばらくの間、ウィルはそれは清掃員ジョンの功績だと、考えていた。だが、
事実は違っていた。
そう言えば、段々、所々、思い出して来るな。
清掃員ジョンはイツカの“作業”が終わった頃、見計らったものか、それとも
イツカ自身から連絡を受けたものか、わからないが、とにかく地下へと降りて
来た。だが、それは清掃のためではなく、単に“ゴミ”収集のため、訪れたに
過ぎなかった。イツカは戸口で自分が予め、ひとまとめにしたらしいゴミ袋を
手渡しただけで、ジョン自身を中へ入れようとはしなかった。二人のやり取り
の様子から、それは当たり前として、確立しているように見えた。
『何で、あいつに掃除させないんだ?』
そう。確かに、オレはそう尋ねたな。ころっと忘れていたけど。
『掃除?』
イツカは怪訝そうに振り返り、自分に投げ掛けられた質問の真意を測りかねて
いる様子だった。
『掃除があいつの仕事なんだから、掃除させてやれば、いいじゃないか?』
『ああ』
ようやく合点がいったらしく、イツカは頷く。
『確かに、彼の仕事だね。でも、僕は嫌なんだ、他人に入って来られるのが。
ここには僕が集めたデータが丸ごと、あるんだよ。そんな所に他人を通すのは
嫌だね』
そして、イツカは続けて言った。
『データは自宅の方にも転送するから、消されても大丈夫だけど、実体はここ
に置きっ放しでしょ。“行き先”が決まるまで保護してあげないといけない』
実体? 行き先? 保護?
ウィルにはどの言葉の意味も、俄かには閃かなかった。

 

back

menu

next