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あの時。
狭い車内にイツカが連れて、寒気と共に流れ込んで来た甘いとしか言いようの
ない香りがあった。アリスの化粧品の匂いとも違うそれ。そして、それこそが
自分の意識が曖昧になった原因なのではないかと、ウィルは疑ってみる。
だって、呆けるには未だ早いし。
他に考え付かないし。
でも。
あれ?
今は何も臭わない、よな?
釈然としなかった。土台、根拠のない思い付きではある。だが、もし、目星を
付けるとすれば、あの臭気以外には何も思い付かないし、それだからこそ理由
になると思うのだ。
他に考え付かないから、そう思ったってだけの話だけど。それでも更に考える
ための材料と言うか、基礎にはなるよな。
第一、自分が香水か何か、そんな物で惑わされるとは思えないし、思いたくも
なかった。それに、原因不明のままでは尚更、気が収まらない。
『おまえ、一体、何を付けているんだ? ヤバいもの、付けちゃいないか?』
 ウィルは思い切って、単刀直入に尋ねてみた。余計な穿鑿で時間を潰すより
利口だと思うからだ。だが、問われたイツカの方は怪訝そうな表情で、ウィル
を見つめ返した。
『何のこと?』
『香水とか、整髪料とか、そんなもの以外に何か、妙な物、付けているんじゃ
ないか?』
『何も付けていないよ。フォレスが嫌うから。あ、そこ、右に行って』
イツカはさも当たり前のような顔でウィルの隣に座り、自分の行きたい方向を
指示する。それに従い、ハンドルを切りながら、ウィルは出来るなら、大声で
聞き返してやりたかった。
“何で、このオレが、おまえを、おまえの自宅まで送ってやらなきゃならない
んだ?”、と。
言ってやりたい不服は胸の中、口から溢れて出て来そうなくらい、いっぱいに
こもって、ムカついている。そのくせ、一言の不服すら言えないまま、ウィル
はこうしてタクシーのようにイツカの誘導通り、自分の車を走らせていた。
おかしい。
何で、オレ、こんなことしているんだよ?
若い女が相手なら、まだわかる。妻を愛しているから、実際には何もしない。
それでも自分が少しばかり隠し持つ、恐らく終生、手放さないだろう男らしい
下心の存在そのものを楽しみながら、送ってやるのは結構、面白く、楽しい暇
潰しだった。偶には動物にすぎなかった時代からずっと持つ、本能のときめき
とやらを味わうのも、一興だと知ってもいる。
なかなか楽しいんだ、これが。スリリングでさ。
だが、そうなると一層、今回は話が違うのではないか。ウィルは男には関心が
ない。男のために余計な時間を割くとか、余計にガソリンを消費するとかそう
いう無駄には一切、我慢がならない質なのだ。ウィルにとっては男とドライブ
など、無駄以外の何物でもない。そんな自分の性格を鑑みると今、こうして、
言われるがまま、イツカの要望に応えてやる自分は到底、正気とは思えない。
明らかにおかしい。
しかし、もし、頭がおかしくなっているのだとすれば。その理由は一つ。あの
匂いしか思い浮かばなかった。
まさか、変なガスとか、そんなんじゃないだろうな。
 イツカと共に車内に流れ込んで来た不可解な香り。あれがウィルを惑わし、
ウィルの思考力を奪って操っているとしか考えられなかった。大体、そうでも
なければ、自分が初対面の、それも男の言うことを、こうも従順に聞き入れる
はずがないのだ。
オレだって、そこまでのお人好しじゃない。それに。
こんなに腹を立てているのに、だ。そこらの路肩にでも車を突っ込んで文句の
一つも言えないなんて、おかし過ぎるよ、絶対。

 イツカの希望通りに運転して、ようやく辿り着いた場所、そこはべらぼうな
地価を誇る土地の上に、とんでもない建築費用を注ぎ込まれて建てられた棟が
居並ぶ、恐ろしく洒落た住宅街の一角だった。指定された位置にウィルが車を
停めると、イツカはごくさらりと言った。
「ありがとう」
それっきりでイツカは帰宅するつもりならしい。さすがにウィルは見逃せず、
慌てて助手席の方へ身を乗り出し、素早く腕を伸ばし、イツカの肘を掴んだ。
コート越しだが、細い肘だとわかる感触に一瞬、ウィルは躊躇し、だが、その
まま引くと、降りようとしていたイツカの身体は簡単に車中に引き戻された。
「何?」
「ふざけるな。おまえ、一体、何様だ? 名前は名乗らないし、こんな所まで
送らせといて、そうさせた理由も言わないのかよ? どういう理由があって、
オレに送らせた? タクシーで十分だろうが? オレでなければならなかった
理由があるんなら、その理由を言え。ないとは言わせない。それがないなら、
失礼この上ない話だからな」
「失礼って?」
イツカは不思議そうに小首を傾げて見せた。
「お礼は言ったよ。それに君は僕を知っている。だったら、名乗る必要はない
し。それと、ああ。なぜ、君に送ってもらったのかは今、答える必要はないと
思うから、次の機会にでも」
「次の機会だと?」
「それにね、ウィル。君には時間がないと思うよ」
「は?」
「即刻、退去した方がいい。御立腹のフォレスと対面しない方がいいからね」
「おまえの言っている意味がわからないんだが? 取り敢えず。何であの大男
が怒っているんだ? で、それとオレとに何の関係があるって言うんだよ?」
イツカは笹形の目を細めた。悪戯を企てた子供のような笑みだが、ウィルの背
筋には正直、嫌な予感が走る代物だ。
「あのね。僕に出し抜かれて、待ちぼうけを食ったから。早く逃げた方がいい
よ、君。ここにいると、まともに会っちゃう。それって危険かも知れないから
ね」
「オレは無関係だ。おまえの悪ふざけとは何の関係もないんだからな。当然、
あいつと会ったって、何ら支障はない。何、馬鹿を言っているんだ、おまえは
?」
「そうかな。だって、君が片棒担いだって、フォレスは思っているよ」
「オレが片棒? 片棒だって? 何で、オレが、おまえの片棒担ぐんだよ? 
さっきまで、会ったこともなかったのに」
「だって、君、普段ならいない場所に、いるはずのない時間にいたんだよ?
示し合わせて待機していたって、フォレスじゃなくても思うんじゃない?」
「冗談じゃない!」

 

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