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ウィルはフォレスの険しい表情を思い出し、思わず声を張り上げた。
「冗談、言ってんじゃないぜ」
思い返せば、あの時。大男が恐ろしい形相をしていたのも、当然のことだった
のだ。いつものように根を詰め、フォレスはひたすらにイツカの終業を待って
いた。この“子供”を待っていたからこそ、定刻を過ぎても一向に出て来ない
状態に苛ついていたのだ。
そりゃ、腹も立つよな。あんなに心配して待っていたのに、どこか、他所から
抜け出したんだろうからな。
あの子守り男の集中力や、イツカへの執着心が自らの雇い主への忠心から出た
ものなのか、それともイツカ自身への愛着から生じているだけのものなのか、
ウィルには判断しかねるし、穿鑿する必要もないことだろう。だが、どの道、
フォレスが本気で腹を立てているだろうことに変わりはない。
マジで怒っているに違いない。
直接、言葉を交わしたことなどない。だが、それでもフォレスの怒り心頭ぶり
は十分に予想出来ることだった。どう見ても彼は生真面目で、融通は利かない
はずだ。イツカを眺めていた、ただそれだけのことであんな形相で睨みつけて
来るような一途な子守り男が怒り狂い、血相を変え、ここへ向かって迫りつつ
あるのだ。それとまともに対面して、挨拶で済むはずがないのではないか。
まさか、本当に、オレが片棒担いだと思い込んでいるんじゃ。

 

ヤバイじゃねーかよ。
「何で、オレが? オレが何したって言うんだよ?」
「間が悪かったんじゃないの?」
気楽な調子でそう答え、だが、イツカはすっと表情を消し、道路の向こう側を
見やった。随分、遠くを見ているような、耳を澄ましているような表情でどこ
かに、何かをイツカは見ているようだが、傍らにいてウィルにはイツカが今、
何を見ているのか、さっぱりわからなかった。
「どうした? 何、見ているんだ?」
「フォレスが戻って来た。制限速度は守ると思ったのに。おかしいな」
「何だ? おかしいって、何の話だ?」
イツカはウィルを見た。妙に真面目くさった神妙な面持ちだった。
「間に合わないから、ほとぼりが冷めるまで君も一緒に隠れていた方がいい。
おいで。急いで」
何のことだか、わからないまま、だが、イツカに促され、彼に続いてウィルも
車を降り、後を追って走らざるを得なかった。
 イツカは本当に急いでいる。大きな身体ではないが、かなり足は速く、その
上、本気で走っているらしい。職業柄、ウィルは体力に自信を持っているクチ
だが、それでも血相を変え、全力で追走しなければならなかった。
猫科の走りだな。
そう感心しながら、わけもわからないまま、とにかく走る。エレベーターには
乗るものだろうと期待したが、イツカは乗らず、その脇の暗い階段を駆け下り
始めた。
「おい。何でエレベーターに乗らないんだ? 第一、何で降りるんだよ?」
「僕の家、地下だから。それに閉じ込められたら困るから、乗れない。ここの
エレベーターは遠隔操作が出来るからね、迂闊に乗れないよ」
そんなの見たことも、聞いたこともない。
そう言いたかったが、足の速いイツカに遅れまいと走るのが精一杯で、無駄口
を叩く余裕はなかった。
こいつ、健脚だな、意外に。
「地下に住んでいる、だって?」
 ややあって思い出し、つい、ウィルは声を荒げる。地下一階は家賃が安いと
喜んで住む知人もいたが、それにしたって、一体、どこまで駆け降りるつもり
なのか? 
地下一階じゃないのかよ? 
普通、人が住むのは地下一階までだろう?

 ウィルが行く先を心配し、息も上がり始めた、地下三階でイツカはようやく
立ち止まり、めざすドアに辿り着いたようだった。銀のドアノブに手を掛け、
イツカはウィルを見た。
「お疲れ。着いたよ」
「まさか。おまえ、地下って、地下三階に住んでいるのか?」
息を切らしながらそう尋ねると、イツカの方は意外そうにウィルを見上げた。
彼にはそんなことを驚いた顔で尋ねるウィルの方が不思議に見えるらしい。
「あれ? マークが言わなかった?」
「何を、だ?」
「僕が特異体質だって、そう言わなかった?」
「聞いたような記憶はあるけど」
「平たく言って、僕は陽に当たれないんだよ。日光に当たるとね、溶けちゃう
の。アイスクリームみたいにね」
くすくすと小さな笑い声を上げ、イツカは首を傾げるようなしぐさを見せた。
「わかる? 一生、わざわざカーテンを開けることなんてないんだから、住む
なら、より深い所の方が静かでいいでしょう? どうせ、窓なんて塞いじゃう
だけなんだから」
さてと。
気を取り直すように呟くと、イツカはウィルの手を取り、引っぱった。
「急いで。フォレスが帰って来た」
 大きな扉を開け、ウィルを自宅に入れると、イツカは苦心して、そのドアを
閉めた。随分、重そうだ。訝しく感じるほど、イツカの動作は重たげに見える
のだ。そして、奥へと続く廊下を進み、イツカはまた新たなドアを閉め、もう
少し進んだ先でまた同じようにドアを閉めた。
宇宙船かよ?
 ウィルはイツカのそんな行動を見ながら、子供の頃、読んだ動物生態図鑑を
思い出していた。字の部分は読んでいないから名前はわからないが、その挿し
絵は印象深く記憶に残っている。蜂の巣。いや、巣と言うのは本来、適切では
ない。蜂が竹の筒の中に卵を産み付け、やがて孵化する“子”のためにそこに
たくさんの餌となる虫を詰めては仕切りを作る作業を繰り返す、そんな説明の
付いた絵を憶えている。
あの筒の中にいるみたいだな。
 イツカは結局、五枚のドアを閉め、ようやくリビングルームへウィルを招き
入れた。はぁー。イツカが膝に手を付き、漏らした息に、ウィルは思わず苦笑
していた。
「疲れ果てているじゃないか? 自分の家だろ、ここ」
イツカはぐったりとした様子で素直に頷いた。慣れない力仕事で精根尽きたと
いう顔だ。
「自分で開け閉めしたことって、ないからね」
イツカは苦笑いしたようだ。
「フォレスって、本当に怪力なんだな。端で見ていると、そんなに重そうじゃ
なかったのに」
彼は夜勤明けだ。疲れているのは、当然かも知れない。だが、それにしても。
あまりに重いドアだと思う。
立て付けが悪いのかな? 
金持ちなのに?
「ね、着替えて来てもいい?」
「ああ」
イツカは自室に戻るつもりならしい。ウィルの脇を通り過ぎる時、あの匂いが
確かに一瞬、鼻先をくすぐった。
あれ。
擦れ違いざま、匂いに気を取られながらも、イツカの肩に届く栗色の髪の先に
ウィルは埃を見つけ、首を傾げていた。
何、やっていたんだ、こいつは。
監察医の髪に埃が付くことなど、あるだろうか? ウィルがそう疑問に思った
瞬間、イツカはふいに立ち止まり、振り向いた。
「あのフォレスをまこうと思ったら、通気孔くらいは通らなきゃ」
屈託のない笑顔でそう言うと、彼は再び歩き始めて、自室へと消えて行った。
おい。
待てよ。
オレは未だ、何も聞いていないのに、何で答えるんだ?

 

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