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ウィルは目を丸くした。
出入り口が一つ、だって? 
馬鹿げている。一体、どこの世界に出入り口が一つしかないような、危険で、
間抜けな高級アパートが存在すると言うのだろう? 
聞き捨てならない冗談だ。安全だからこそ、の“高級”アパートなんだろ? 
安全こそ、高級の、高級たる所以じゃないか? 
地下三階なのだ。当然、“ここ”に窓はない。
だけど、もう一つくらい、玄関とは別にさ、地上に通じる階段を用意してある
もんだろう、普通はさ。
 ウィルは敢えて不服を呑み込み、気楽そうなイツカを小さく睨むに止めた。
毒づきたいのは山々だが、時間的に猶予がない。何しろ、今日辺り、あの悪名
高い“一色きりの世界”に対処すべく、緊急ミーティングが持たれて当然だと
ウィルは踏んでいるのだ。その場に自分がいないわけにはいかなかった。
そうだ。オレは忙しい。こんな甘ちゃんのお相手なんかしている場合じゃない
んだ。
「冗談は結構だ。さっさと裏口に案内しろ」
「有りもしない所に御案内出来るほど、器用じゃないよ」
イツカはくすりと笑った。
「何がおかしいんだ?」
「君が怒っていること、かな」
「確かにオレは怒っている。見ての通り、な。だが、それのどこが面白い?
馬鹿にしているのか?」
「だって、あんまり、怒っている人なんて見掛けないんだもん。珍しくって。
まぁ、死体は大抵、御立腹なんだけどね」
「おまえって、、、」
 ウィルは呆れて、二の句が継げなかった。まさか被害者の亡骸を引き合いに
出されるとは思ってもみなかったのだ。
どんな感覚しているんだ、こいつは。
そりゃあ、他殺体は皆、御立腹なんだろうよ。他人の勝手で突然、人生を強制
終了されちまった皆さんなんだからな。
もっとも、“そこ”に意志が残っていれば、の話だがな。
「ねぇ、ウィル。取り敢えず、そこに座って待ってみたら、どう? フォレス
だって、まさか一年も二年も怒っていないだろうし。彼の気が済むまで待てば
いいんじゃない? ここ、日光以外は一応、一通りあるしね」
何が面白いのか、イツカはケラケラと笑い声を上げて見せた。
こいつ、本当はパーなんじゃないのか? 
それとも極端に“特殊な環境”で育ったから達観しちまって、いっそ、結果的
におかしくなっているんじゃないのかな、おつむの具合が、さ。
 むろん、ウィルとて家に帰れば床磨きに命を賭け、他人の話にはまるっきり
耳を貸さない変わり者が待ち構えている立場だ。変人には慣れて、免疫がある
と言えなくもない。
だけど。あの女も相当なもんだと思うけど。
でも。
こいつだって、相当な代物だぜ。
呆れるぜ、ったく。
 ウィルは小さく、こっそりとぼやいてみた。きっと生まれ持った、もしくは
後付けされた性格に付ける妙薬などないのだ。
「大層な金があるんならな、絵なんか飾る前にまず、自分達の安全を確保しろ
よ。火事とかそういう非常時はどうするつもりなんだ? どこからどうやって
逃げるつもりなんだよ? えっ?」
風呂上がり、未だ濡れたままの髪の裾を指先でいじりながら、イツカは存外、
ケロリとしている。カッとなり、恐らく結構な形相に変わっているだろう男を
間近で見上げていて、恐れたふうもなく、のんきに笑うばかりなのだ。
案外、厚かましいんじゃないのか、こいつ。
このオレが、見た目、一般市民にうっかり通報されちまうようなこのオレが、
だぞ、こんなに怒って怒鳴っているのに、どこ吹く風かよ? 
お坊ちゃまは鷹揚なのだ。そう自分に言い聞かせ、納得するしかなかった。
「いいか、坊主。聞かれたことにはきっちり、誠意を持って答えろよ。非常時
におまえ達は一体、どこから、どうやって逃げ出すつもりなんだよ?」
「逃げる必要がないもの」
「は?」 
イツカはソファーに腰掛け、妙に落ち着いた口調で付け加えた。
「だって、フォレスがいるんだよ? 逃げる必要なんて生じないよ」
彼は本気でそう信じているらしい。
絶句する。
こういう脳天気で、気楽な奴が今時、いるんだ。
不景気で、物騒で、良いことなんか、滅多にない、この御時世に。
イツカは自分の子守りに対し、絶大な信頼を置いているらしい。
こいつは本気だ。オレには気が知れないことだけど。
信頼、それは美しく、幸せな夢なのかも知れない。だが、どれほどフォレスの
目つきが鋭く、体格の良い腕自慢であっても、強盗相手に何が出来ると言うの
だろう? 
強盗とは徒党を組み、厄介な武器を携えてやって来る連中のこと、だろ?
そんなものを相手にたった一人で、この気楽なお子様と金品とを、それも自分
の安全を確保しながら丸ごと守るなど、ウィルには到底、実行不可能な夢物語
しか思えない。
スーパーマンでもなけりゃ、絶対、無理だ。
大体、火事とか地震とかその手の災難に腕力は通用しないし。怪力より、ドア
の数の方がよっぽど重要なんじゃないのか。
「どうぞ、掛けて」
「人の話を聞けよ。残念だがな、人相が悪いくらいじゃ、防犯効果なんてない
んだよ。痴漢除けくらいにはなるかも知れないが」
「大丈夫だってば。フォレスは桁違いだから。フォレスがいれば、何の心配も
いらない。当然、ドアも一つで十分だってば」
ニッコリ笑って、そう言い切るイツカの神経がウィルには不可解でならない。
少しは疑えよ。
 イツカが自分の子守り、フォレスに寄せる信頼はウィルには不可解な事象だ
が、仕方のないことと理解してやらなければならないのかも知れない。
そりゃあ、な。“穴蔵”にずっと二人きりじゃあ、な。

 

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