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 ウィルは見慣れないイツカの様子に戸惑いを覚えた。だが、実際、その態度
にどう対応すればいいものか、正直、見当も付かない。仕方なくウィルはその
まま観察を続け、その上でようやくイツカは緊張し、そのために動けずにいる
のだと気付いた。無表情とも言える動かない顔にはしかし、僅かににじんだ色
がある。それは恐れであり、後悔だったのかも知れない。
もしかしたら。
イツカはいたずらが過ぎたのではないか? ウィルはそう思った。根拠のない
直感と呼ぶべきものだが、それでも間違いないと思う。イツカが予想した以上
にフォレスの怒りは激しいものだったのではないか? だからこそ、イツカは
今、後悔し始めているのではないか? 
大体、何で、こんなこと、オレが思い付くのか、それもわからない話だけど。
だって、こいつはただドアの方を見て、固まっているだけなんだから。だが。
ウィルは小さく、こっそりとため息を吐く。次にあのドアを開け、入って来る
人間、この穴蔵の住人はもう一人、あの子守り男しかいない。
しかも、相当、怒っているんだ。
イツカは依然、緊張したままだ。乾いたピーナッツ色の顔から血の色が失せ、
整った顔がいよいよ木造りの彫刻のように見える。大した容姿には違いない。
さしずめ、玄関先で暴力夫の帰宅に怯える奥さん、の図かな。
今更、そんな戯言を思い浮かべる自分の軽薄さを多少、嫌悪しながらウィルは
為す術なく、イツカの様子を窺うばかりなのだ。
だって、オレには出来ることがない。仕方ないじゃないか。
しかし、イツカの方は意を決したように、ふいに立ち上がった。
「おい?」
「もう少しだけ、下がっていてくれないかな? 巻き添えを食わせるわけには
いかないから」
巻き添え?
何とも物騒なセリフに唖然とするウィルに短く指示し、イツカは受話器を取り
上げた。
「僕。今、ここにウィルもいるんだけど。そう、そうだよ。単に家まで送って
もらっただけ。知らない人の車には乗れないからね。うん。だけど、フォレス
はそうは取らなかったみたい。今、玄関先で凄い音がするんだ。うん、そう。
たぶんね。とても止められそうにないんだよ。だから来て欲しい。もちろん、
君だって無理だけど。でも、少し、少しだけ時間を作ってくれれば___」
ドン! 
その唐突で、あまりにも大きな音と激しい振動に驚き、イツカは口を閉じた。
ウィルはと言えば、正直、心臓が止まりそうだった。なぜなら、それは地下で
体験するにはあまりに強すぎる、日常にはあり得ない衝撃だったからだ。
「ダメだ。間に合わない。ティムに連絡して。その方が早い。急いで」
 誰かに繋がっていた受話器を置き、イツカは足早に振動の方向、ドアの方へ
と駆け寄って行く。ウィルはドア越しに伝わって来るビリビリと、何かを引き
裂くようなヒステリックな物音に自分の神経が怯え、こわばって行くのを実感
していた。未体験の恐怖に身体中が緊張し、次に起こるだろう事態を警戒して
いる、そう自覚出来る。だが、緊張する以外に為す術はない。フォレスという
男が今、何をしているのか、ウィルには一向に全容が見えず、イツカには見当
くらいは付いている。ウィルはイツカの指示通り、少しばかり後退し、せめて
出来るだけ丁寧かつ、正確に自分の脳裏に五枚のドアを再生してみた。それら
のドアにイツカは一度たりとも、鍵を掛けなかった。いや。鍵を掛ける手間を
怠ったのではない。ドアには鍵穴そのものがなかった。
えらく重そうだったけどな。だけど、重いだけじゃ防犯効果はない。だったら
他に何か、仕掛けがあるはずだけど。マンガ的には、だけどな。
 ドアの仕組みすらわからず、怪訝な思いでただ、状況を見守るウィルだが、
事態は決して楽観出来るものではない。イツカが一つ目の、リビングに面した
ドアを開けた途端、物凄い音が流れ込んで来たのだ。
ここは工事現場かよ、って勢いだぜ、その土煙付きの爆音は。
「フォレス、無茶しないで。今、開けるから。待って」
イツカはドアを抜け、暗い廊下へ駆け出て行く。それを見送り、ウィルは嫌な
予感でいっぱいになっていた。育てられたイツカでさえ、その子守りの怒りを
恐れている。行きがかりとは言え、片棒を担ぐ形となったウィルにフォレスが
いい感情を抱いているはずがない。
大体、オレは第一印象が悪そうだったしな。
もし、フォレスが怒りに任せてイツカまで殴るようなら、その時にはウィルの
方は殺されかねないのではないか? 
とんだ災難に巻き込まれちまったよな。
事態はきっとイツカではなく、ウィルにとって悪い方、より悪い方へと急激に
加速し、転がり落ちている。
とんだ災難だ。
同じ言葉で重ねてぼやくウィルの耳にも低く、その声は届いた。
「どういうことなんだ?」
 イツカが戻って来るまでのその時間がウィルにはとてつもなく長く、まるで
時が怠けて、のろのろとしか動いていないように感じられた。未だ二人の姿は
影も形も見えない。しかし、廊下の向こうからフォレスの低い声が静かに流れ
込み、ウィルの耳にまで届いて来た。押さえて低い声だ。あたかも声ごと内に
深く、自らの怒りを抑え込んでいるかのような。
「来い」
 フォレスはイツカの右手首を掴み、強引に引きずって入って来た。さすがの
イツカものんきに笑ってはいなかった。
「待って、フォレス。ちゃんと説明するから、少し時間をくれないか? 痛い
よ、フォレス。ね、先に、まず、手を放してよ」
最後にはまるで哀願するような口調に変わっていた。本当に、何よりもまず、
手を放して欲しいとイツカは切望しているらしい。
「フォレス。ねぇ、聞いている? 放してよ。痛いから」
 ウィルはフォレスが無造作に掴んだイツカの手首を見た。フォレスの握力に
遮られて、血が満足に通わなくなった、イツカの指先は既に青ざめて見える。
こいつなら、イツカの骨くらい、へし折れるのかもな。
「フォレス」
一向に力を緩めないフォレスに、イツカはもう一度、言った。
「放して」
フォレスは険しい表情を一層、強め、イツカを睨み据える。
「放していたから、こんなこと、しでかしたんだろ?」
「痛いったら」
イツカの苦痛を思うと、手を放してやれと言ってやりたいところだが、ウィル
は黙っていた。ここで割り込むなど、自殺行為に他ならない。
大体、何で、オレ、こんな災難に巻き込まれちまったんだ?

 

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